その1

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その1

ぼくのうちには、昔、一匹の河童がいた。 うちというのは、信州の山あいにあったぼくの生家で。ぼくが上京してから間もなくとり壊されたから、今はもうない。 数千坪の竹林とともに丸ごと人手にわたり、ゴルフコースやホテルやキャンプ場などの複合リゾート施設に生まれ変わっている。 ぼくの父親は、戦後の焼け野原からヤミ商いで成り上がり、若くして財を築いた立志伝中(りっしでんちゅう)のひとだったらしい。 といっても、豪胆でダイナミィックな大物というタイプではなく、用心深く鋭敏に金の匂いを()ぎ取っては、口八丁手八丁の詐欺まがいの要領で商売敵(しょうばいがたき)を出し抜く狡猾な男だったそうで。 その絶頂期の青年時代の写真をみれば、どれも垢ぬけた仕立ての洋装で気取って映っているのが多く、……実の息子の口からいうのもなんなのだけれど、……当節流行の西洋の銀幕役者に引けをとらないくらい上背(うわぜい)があって彫りの深い、日本人ばなれしたスマァートな二枚目だ。 しかし、なるほど、巧言令色(こうげんれいしょく)はお手のものといった抜け目のない雰囲気も、ところどころ表面のかすれた古い白黒の印画紙をとおして、ちゃんと伝わってくるのだ。 母なんぞは、「お前の"てて様"は、ズル賢いうえに色狂いの外道(げどう)だったんだよ」と、こどもの時分のぼくに向かって、ことあるごとに何度も繰り返したものだった。 母は、かつて日本に駐留していた米軍将校がこぞってひいきにしていたという港の酒場の酌婦(しゃくふ)をしていたときに、父と出会った。 ――まだまだヒヨッコだった"てて様"が、メリケンさん相手の商売に上手く渡りをつけられるようにと、はは様が「わが身を削って」あげたのよ…… と、幼いぼくに、呪文のように何度もささやいたのだ。 ここまで聞いただけで、ぼくの父と母のヒトとナリは、おおむね、いわずもがなだろう。 飛ぶ鳥落とす勢いで商いを広げていた父が、三十路(みそじ)なかばにして、身重(みおも)の妻と12才の娘を連れ、逃げるように田舎の山奥に移り住み、隠居生活のようなことをはじめたのは、情の濃い年増の後家御(ごけご)に手を出したあげくの痴情がらみのイザコザで刃傷沙汰(にんじょうざた)となり、左胸から下腹までタテ一文字の傷跡をこしらえたのが原因だったからで。 いかんせん、色恋が因果の向こうキズとくれば、父のような男にとっては名誉の勲章。 商いをやめて無尽蔵(むじんぞう)にヒマをもてあますようにもなったから、苦い教訓もたちまちノド元すぎれば、むしろ閨房(けいぼう)の道楽はどぎつさを増し、金にあかせたタチの悪い不埒(ふらち)な趣向にはまっていった。 屋根より高い石塀をへだてて母屋と距離を置いた離れの屋敷に、女ばかりか男まで、若くて見目麗(みめうるわ)しいのを山麓(さんろく)の町や村からかたっぱし、ひっかえとっかえ連れてこさせ、連日のように呑めや歌えやの乱痴気騒(らんちきさわ)ぎをくりひろげたそうな。 ぼくが生まれた四年後に、父は亡くなった。 ヒ()をのんで自殺したというが、ぼくは、父が梅毒(ばいどく)を患っていたのではないかと思っている。 当時は、梅毒の治療にヒ素を使うことがあったそうだから、副作用でヒ素中毒を起こすケェスも、きっと、(まれ)ではなかったろう。 いくら大成金(おおなりきん)といったって、田舎の山中では猛毒をたやすく手元に取り寄せられるものでもないから、梅毒の治療薬として処方されていたと考えたほうが合点もいく。 あるいは、いまわしい性病のせいで自慢の容姿が痘痕(あばた)にまみれる苦痛と悲しみをこらえきれずに、致死量をみずから服毒したのかもしれないけれど。 ……いずれにしても、「自業自得」というべき他ない最期だったにはちがいない。 .
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