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「樹さんたちが家を出て行ってから、誠一郎さんは本当に寂しそうでした」
そんなこと言われたって、俺にはどうしようもない。
「……正直言って、両親の離婚理由、知らないんだ。お袋は話したがらなかったし、有無を言わせず俺はこの家から連れ出されたわけだし」
困惑を隠さず言うと、フミさんは眉を下げて溜め息を付いた。親父の書机に腰掛けると所在無げに手元に視線を落とす。
「それは……私が、食べてはいけないものを食べてしまったから」
「何……食べたの?」
恐る恐る訊いてみる。フミさんは、自分は『本の虫』だと言った。
「あなたのお母さんの、日記です。ブルーブラックの万年筆で綴られた、日々の喜びや悲しみ、猜疑、不満、安堵……様々な感情。複雑な風味が殊の外美味だったので、自我を形成したばかりの私には、大変な御馳走のように思えたのです。夢中で喰いつくしてしまいました」
「食べた? 日記を? どうやって?」
俺はポカンとしてフミさんを見た。
フミさんは、そんな俺の様子をみて、手近にあった本を適当に手に取った。ページを開くと、片手で紙面を撫でさする。すると、ふわりと何かがページの上に立ち上がった。フミさんはそれを白くて細い親指と人差し指でつまんで引っ張る。糸を引き出すようにするすると伸びていくそれは、紙面にプリントされた……文字? 糸の端は、フミさんの形の良い唇に吸い込まれた。麵を啜る、というよりは見えないストローで吸い込んでいくような光景。
ふいに糸が途切れて、フミさんは口元をぬぐった。
「読みやすいように噛み砕いた学術書は、可もなく不可もない味ですね。お腹は膨れるけど、美味しいかというと……微妙」
フミさんが机に広げたページをみて、俺は目を瞬いた。
真っ白。
これって……。
今まで目にした白紙のページは、フミさんが食事をした後だったんだ。
「樹さんのお母さまの前に姿を現して、誠心誠意、謝ったのですが……、理解していただけなかった。私は……古来から様々な人々が妄想してきたモノが古い書物の間に挟まっていた存在で、偶然、誠一郎さんは私を見つけて私の姿かたちを想像しました」
「それで、フミさんは、姿と自我を得た、と……」
「そういうことですね」
自我を得たばかりの存在は、自己制御能力の低い赤ちゃんのようなもので、事の良し悪しの判断無く、ただ存在を確かにする行動のみを繰り返し、それがフミさんの場合は手当たり次第に「文字を食べる」ことだった、と。
冷静に考えれば、「文字を食べる」だけの存在。でも、自分の日記を食べられたお袋には冷静になれない相手だった、のか。そりゃ、……そうだよな。自分の心のアルバムを、得体のしれないモノに喰いつくされたのだから。フミさんを生み出してしまった親父が「そういうものだから」とフミさんを擁護すれば、更に逆上もするだろう。
長年の謎が溶けてしまったわけだが、俺も今更この感情をどうしたら正解なのかわからない。両親とも、もう、この世にいないわけなんだし。
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