餞の言葉

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餞の言葉

 高校受験が無事に終わりました(いきなりですが、これからかなり長く続きますよ。文字の量が多いので気を付けてください)。  本当にお疲れ様でした。今日までの受験生生活を振り返ってみて、いかがですか?  結果が出たことで少しずつ実感するものもあるでしょうけど、なんだろう、何とも都合のいい日本語が見つからない、そんな気持ちなのは自分だけでしょうか。  今日、みんなは晴れて卒塾の日を迎えました。卒塾おめでとう。今日は思いっきり楽しんでくれたらいい。  これをみんなが読む頃には、どんなに早くても大方の催し物は終わっているはずだから、楽しんでもらえたといいな。  やっぱり最後は楽しくパァーッとやりたいからね。  精一杯の感謝の気持ちと、精一杯のねぎらいの気持ちでみんなの門出を祝いたく思います。  本当にお疲れ様。よくがんばりました。  これ以外に気の利いた言葉が浮かびません。本当によくがんばった。  こっちからすれば、本来みんなを高校に送り出すことが仕事なわけだから、これで一応役目は果たしたわけだ。  だけど、本音を言えばやっぱり淋しくてしかたないですよ。  なんていうか、燃え尽き症候群になりそうだ。  実は3月7日から新年度が始まっていて、新しい中3とまた1から始まったわけで、申し訳ないけどやっぱり気持ちが入らないっていうか、心にぽっかり穴が空いている感じがします。  こんな話をすると、「そんなこと言っても先生は、毎年中3と絡むわけだから、今年の中3だってそのうちのひとつに過ぎないでしょ」なんて思っちゃう人もいるでしょうか。  言葉は悪いですが、そんなバカな、ですよ。  そりゃ毎年新しい中3と出会って、毎年高校受験を繰り返していることに違いはないし、毎年一生懸命戦いはするけど、同じじゃないです。  それに、みんなもなんとなくわかっているだろうけど、今年の中3は楽しかったほうですよ?  今年はなんていうか、塾全体でのパワーがすごかったかなと思います。  それに、みんながそれなりに塾のことを好意的にとらえてくれていたんじゃないかな、とも。  なんていうか、今年はよく名前を呼ばれる一年でした。  僕が作るプリントをみんなとても一生懸命取り組んでくれたし、質問とか相談もよくしてくれました。  みんなは先生殺しもいいとこですよ、ホントに。自覚あります?  塾が用意した教材だってちゃんとあるのに、「赤城先生の作ったものがいい」って、なんという殺し文句。  ずるいよ、そんなこと言われたら張り切っちゃうじゃない。  我ながら単純だなぁと、あっさりプリント作りに精を出す日々です。  さらに追い打ちで心優しい人が「これ、いつ作ってるんですか?」「ちゃんと寝てるんですか?」って気遣ってくれる。  くそぅ、何回殺す気だ。  先生殺すにゃ刃物はいらぬ、がんばる姿勢と優しさがあればいい。  それにね、プリント作りもまた楽しいんですよ。なんていうか、やらされている仕事じゃないからね。  本来なら、ありもののテキストを使って用意されたカリキュラムで授業をして、それで成績が上げられれば先生の給料分の仕事はしていることになるし、みんなからもらっている授業料に僕のプリントは含まれていないわけで、本来ならなくたって誰も文句言わないはずだけど、そこが胆なんだろうね。  なんていうか、「なきゃないでいいけど、あったほうがいいもの」って、すごく大事だと思うんですよ。  これらによって人生の大半が彩られていると思うんです。  生きていくだけだったら、とりあえずごはん食べて適度に運動して寝ればいいけど、それじゃ人生が面白くないのと一緒で、自分で何が必要か考えて、それを実現するためのものを作って、それを試しに使ってみてまた改良して……と、ものづくりの精神そのまんまですね。  そしてその動きの背景にはいつもみんなの喜ぶ顔がある。  だって、普通の受験生はさ、「先生が配るプリント=宿題とか課題とかやらなきゃいけないもの=好ましくないもの」になるじゃない。  それなのにみんなは、「今度はなんだ?」「こういうの欲しかった!」「あのプリントのおかげでできるようになった」って。  ……ほんとにもう、作り甲斐あります。  自分のすることでこんなにも喜んでくれる人がいる。  こんなに幸せなことって他にあります?  幸せの定義なんて曖昧で簡単には決められないけど、自分でそうだって思っているんだから、間違いなく僕は幸せ者です。  誰かに名前を呼ばれ続ける限り役目は終わらない。  「誰かのためにしてあげられることがある」って嬉しいことです。  仕事だからとか、頼まれたからとか、何かしらの損得勘定なしに心からそう思える、そういう人たちに出会えたことに、心から感謝です。  やっぱりがんばる人はその周りにいる人もがんばらせてくれますよ。  みんなの努力が僕を突き動かした。そして僕の動きにみんなが成果で応える。  これは先生と生徒の関係という意味では理想形ではないでしょうか。  なんて言ったら自己評価高すぎですかね。  生活記録ノートもまさにそうでしょう。  あれだって、なきゃないでいいものだったんでしょうけど、あれが個人的には結構いい役割を担ってくれたと思ってます。  冬休み以降、なかなかみんなの様子を細かくチェックする時間は取れなくなるし、みんなが何をどれくらい勉強しているのかを知りたいからっていう理由で始めましたけど、気付いたらメインは日記ですか。  途中で書かなくなっちゃった人もいましたけど、書いてくれた人、貴重な時間を削って付き合ってくれてありがとうございました。  みんなの日記はとても個性豊かでユニークで、決意表明や素朴な疑問、1日1ページの長文、学校の話や趣味の話など、いろいろ書いてくれましたね。  あれらも決して意味がないことはなかったと思います。  何年かたったときにふと読み返してみるといいんじゃないでしょうか。いい記念だと思いますよ。  とにかくこちらとしては、今年はホントに楽しい1年でした。  忙しくて大変だったこともあったけど、そんなものをもろともしないぐらい充実してました。  なんて言うか、「こんなに充実した日々を送れて、お金もらっていいのかな」「こんなに楽しく仕事ができるならこっちから金を払ってもいいくらいだ」って思いますもん。  いや、「じゃあそのお金をちょうだい」って言われたらさすがに泣きますが。  それにしても、充実している時間はあっという間に過ぎ去るものですね。  受験が近づくにつれて、何人かが「もうすぐ塾の授業が終わっちゃう」なんて言ってくれていましたが、まったく同じ気持ちです。  というか、今でも思ってます。  でも、こういう「喪失感」というのも幸せな感情なんですよね。  それだけ「失った」と思っているものに価値があった、ということですからね。  限りある時間の中でそういう価値あるものに出会えたというのは、とても幸せなことです。  これを書いているのは合格発表よりも前ですが、もうすでに別れを惜しむ気持ちになっています。  ……おっと、これじゃあ全然「餞の言葉」になってないね。  いい加減振り返ってばかりじゃなくて、そろそろ締めくくりに入りましょうか。  それでは、最後にわりとしっかりした手向けの言葉を。  まず、ここで経験したこと、出会った人たちのことは忘れないでください。  ここで学んだことは、必ず今後のみんなを支えてくれます。  あんなに一生懸命勉強した1年はなかったでしょう。  つらいときもあっただろうし、もう嫌だってなったときもあっただろうし、なんでこんなに勉強しなきゃいけないんだって思ったときもあったでしょう。  だけど、嫌なことばかりだったわけでもないはずです。  いい点取ったときの嬉しさや、仲間とともに笑いあったときの楽しさ、なにもつらいのは自分だけじゃないって思えたときの心強さもあったはずです。  どちらのほうが多かったかはわかりませんが、これから先もずっとそうです。  「嫌だなぁ」って思うことが続く中で、たまに「やっててよかった」って思えることがあって、またがんばろうと思える。人生はそれの繰り返しです。  時に自分の無力に怒りを覚えても、時に仲間を傷つけ、失って悲しんでも、時に道を惑わせようとする悪意にまみえても、常に自分の内なる声に耳を傾け、後悔のないよう、自分の信じた道を歩んでください。  自分自身が考え、悩み、苦しみぬいて出した答えを大切にしましょう。  大丈夫、きっとうまくいきます。あなたの導いた「答え」はきっとあなたの世界を明るく照らします。  それに、みんなが学んだものは勉強だけではないはずです。  ここで得たものが、今後のみんなを形創る1つの要素になります。  これから先、またいろんな出会いがあって、いろんなことを経験すると思いますが、それでも決して上書きされて消えることはないはずです。  それぐらい濃い1年だったと思います。  そして、みんなの成長にあたり、ほんの少しでも自分が関われたことを誇りに思います。  みんなの歴史の1ページに自分の名前が刻まれたのなら、これほど嬉しいことはありません。  とにかく、みんなの将来に期待します。1年後、5年後、10年後……人は環境によってすぐに変わってしまいますが、とにかく良い方向に変わってくれることを願うばかりです。  これはあくまでも持論ですが、「勉強ができる人」と「頭のいい人」は違うものだと思うのです。  「東大生は変な人が多い」とは良くある話ですが(実際は決してそんなこともないと思いますが)、ただ単に勉強ができても人としての魅力はあんまり感じないと思うのです。  いい大学に行って、いい会社に入って、いいお給料もらって……で? 結局なんなの? って思っちゃう人は結構います。  社会的地位を考えたら、学歴はかなり大事なんだろうけど、個人的にはそんなのどうでもいいっていうかね。  じゃあ、なにをもって「頭のいい人」なのか。こればかりは人それぞれの価値基準で変わってくると思うけど、少なくとも自分は「空気が読める人」「会話が上手な人」「幅広い教養を持つ人」とかがそれにあたるのではないかと思っています。  簡単に言えば「なんかよくわかんないけど、この人はそばにいてくれたらいいなぁ」って思える人がステキかなって(あんまり簡単になってないか)。  みんなにもぜひそういう人になってもらいたいです。  変な話、全然勉強のできないバカでもいい人ってたくさんいるじゃないですか。  その人と比べたら、ただ勉強ができるだけで、付き合っても楽しくないような人なんて、実にしょーもない。  みんなは少なくとも今のところは「勉強のできる人」の部類に入っているだろうから、ぜひ勉強ができるだけじゃなく頭がいい人になってほしいな、というのが個人的な希望です。  それが「自分磨き」ってものだし、僕としても常にそれを意識して、よりステキな人間になれたらいいなと思って毎日過ごしています。  とりあえず、自分で自分のことが好きになれるような、胸を張って自分の思い通りに生きられるような人になってください。  さて、皆の将来がどうなることやら、先生としてだけでなく、ひとりの人間として楽しみにしていますよ。  さらに言えば、みんなが大人になったとき、どっかの居酒屋とかで「あのころは○○だったねー」なんて思い出に花を咲かせながら「答え合わせ」ができたらステキだなぁと思います。  もちろん正解とか模範解答なんてものはありませんよね。  各自の決めた答えが正解です。  そのときに改めて、僕もちゃんとした自己紹介ができればいいな。  そんな催しを誰かが企画してくれることを期待しています。  って、気付いたらこんなに長くなっていますね。  ここまで読んでくれてありがとう。まだちょっとスペースがあるから、もうちょっとだけお付き合いください。  受験勉強について、というか、「どうやったら成績上がりますか?」みたいな問いに僕は「同じ問題で同じようなミスをしないこと」と、よく口にしていたかと思います。  要は復習することが学習することであり、成績を上げるにはそうやって経験値的なものを増やしていくしかないってことですけど、これは話を大きく広げると、人生単位でも同じことが言えると思うんですよね。  要は「こういうときにこうするといい」とか「こういう人にはこう対応すればいい」とか「こう困ったときはこうすれば対処できる」といった、生活の知恵的な要素だね。  一度ミスしたことは次に活かせればいいし、一度うまくいったら今度はそれをよりよい方向に発展させていくようにできれば、比較的万能な人になれるんじゃないかなぁ、なんておぼろげながら思っています。  これも持論ですが、とにかく、人生において「無駄なことなんて何一つない」ってことです。  みんなも人生で一度くらいは「なんでこんなの勉強するんだし、大人になったって使わねーじゃん」って思ったこともあるでしょう。  中学生にそう聞かれたときは「高校生になるためだよ」と流しますが、本当のところはきっとこういうことなんだろうなと思っています。  みんなにならこんな話もできるかな、と。  もちろん、すべてのことに意味を持たせるのはちょっと疲れちゃうかもしれないけど、活かすも殺すも自分次第だからね、常に「理由」を追いかけたいと思う今日この頃です。  ……というわけでした。  では最後に改めて、卒塾おめでとう!  みんなの未来に幸多からんことを心から願って、以上をもって自分からの餞の言葉とさせていただきます。  最後まで読んでくれてありがとうございました。  もしかしたらここまで来る前にまた泣いちゃってくれている人もいるのかな?  ま、お構いなしに話を進めますが、本当に出会ってくれてありがとう。  日本語的に変だけど、心からそう思います。  そしてみなさん、これからの人生、お願いだからがんばってください。  自分も負けないようにがんばります。  そばに居なくても互いに支えになれるような、そんなある種の理想ともいえるような関係を築けていたら最高に幸せです。  それでは、また会える日まで。                    2020年3月9日 赤城恭介
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