カルナ姫の結婚事情

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平和な家庭に怒号と食器が飛び交っている。諸国との戦争に明け暮れようやく大陸統一の天下布武を成し遂げたアズール連合王国。 財政は逼迫し長引く不況と低賃金雇用と少子高齢化と就職難に臣民はあえいでいる。幾多の苦難を乗り越えて結ばれ艱難辛苦を共に味わうはずの夫婦。どこでどうボタンを掛け違えてしまったのか。成熟した国家につきものの熟年離婚、介護疲れ離婚、卒婚、さまざまな理由で長年連れ添った夫婦が仲たがいする。夫妻にとっては数十年も先の事だ。それが今は、その時を迎えてしまったのだろうか。 そんな夫婦は少なくない。この世帯もそうだった。 カルナ姫は夫の低収入と家事不参加をなじり、セス男爵は妻の手抜き料理と留守中の劇場通いを非難する。男爵は乗合馬車で帰宅した。馭者に金貨十二枚を払った玄関先で着飾った妻と鉢合わせした。 床に落ちる男装歌劇団の半券チケット。それを夫がとがめる。 「お前が悪い」 「いいえ、この甲斐性なし」 夫が言う、包容力とは威厳とか家督とか、そういう事ではない。 「お前だってやれる事はやった。俺だって他人のこと言えないが、お前が言ったのは、『俺がお前の為に動いた』、だからそれで良いじゃないか」 「…わたしの為?」 男爵が言うには国王に拝謁した帰りにのろけ話をして回ったとの事。 「あぁ、本当に、やって良かったよ、お前は。これでお前は俺の嫁だ」 男の本分、彼が本当にするべきことを理解してない。真に成すべきこと。彼がそれするためには世辞やごますりでなく剣の腕。それはけっして逃げることじゃない。 「それじゃ、わたし働くわ。家事は貴方もしてね」 姫は意を決した。 「何を言ってるんだ。お前こそ。金がどうした。少なくともこの先の人生、その程度の事で揺らぎはしまい。専業主婦は俺が決めた事、俺がその責任を持つ。俺はお前の事は片時だって忘れねえからな。お前も忘れちゃダメだからな」 「わかったわ」 姫は夫を信じることした。 「その代わり、今度は俺から言いたいことがある」 「何?」 「お前を愛している。この先もずっとだ」 「私、あなたの妻よ?」 彼女の真っ直ぐに見つめる瞳は、それでも揺るがない。 「真にそういう関係になれるよう、そのためならこの身を捧げる」 彼の言葉を聞いて、彼女は目を瞠(みは)った。 「ええ、お互いに、この命尽き果たす時、あなたが私を支えてくれるなら。たとえそうでなくても、私はそれが望みだったの」 そのとき目にしたのは、彼の真っ黒な隻眼(せきがん)の奥に、静かに燃え立つ彼女の火。 「…それって、『生涯』と言う意味か?」 夫は、そう問いかけた。 「そうよ、生涯、私に尽くして下さる…あなただったら、あなたは私の妻になれる」 男爵は短剣に自分と妻を交互に映し「俺には不釣り合いな人だ」 一瞬、彼女は息を切らし、それから笑みを浮かべた。それが何を意味しているのか。 「…いいえ、あなたより、私の方が『生涯』のあなたより、ずっと、ずっと、ずっと、素敵だわ」 夫は短剣を鞘に納めた。その刃をよぎる一瞬の精悍な顔立ち。 そして彼女は、自分の声が、夫の魂に届いたのだと確信し。 彼女が生まれた場所と、魂が繋がった場所は違う。実家は奥深い森の地主。夫は高原を駆け抜ける騎士の子孫。 魂の繋がり方は全く違う。 でも、それは「生きている」という事実に、『魂の繋がり』というものがある証なのだと彼女は、初めて知った。湖の畔で一糸まとわぬ姿で契った。 鎧も兜も剣もドレスもケープも宝珠も何もかも捨てて寄り添たあの日。 彼女はいつまでも、あの頃の夢を失いたくなかった。 しかし、彼女の言う『生涯』とは、誰にも触れられず、誰にも見せてもらえない夢のこと。 「私はね、あなた以外の誰か一人でも、私を見てくれてたら、素敵な人生になったわ」 彼女は、そう言いながら、自分の胸元を見た。 胸の真ん中に刻まれた「魂」。 「私と繋がった魂」 何物をも受け入れられぬ魂は、私にはとても見えないのに、何故ここにいるのか。私の手には、彼女の魂が添えられている。 …それは彼女の魂が、私を受け入れようとしてくれているからなのか。 「私、あなたのこと、今でも好きよ…私の生まれてすぐの頃、あなたのこと、ちゃんと見てくれていたわ」 彼女は、いつの間にか泣いていた。 二人の間に赤い糸を持った天使が羽ばたいている。 「…うん、ありがとう…好き、大好き…でも今まで、他のどんな人からも『お前は触れない』とことを言われたことを、『誰とも触れ合えない』ことを言われてから、私、自分がどんな気持ちだったか分からなくなった…だけどそれが私にとっての、人生のチャンスだったの」 カルナ姫にはとてつもない保護と途方もないくびきがついていた。亡き父の愛情であり残酷でもあった。文字通りカルナを箱入り娘にする強力な呪縛が。 その言葉が終わった後、彼女は何も言わず、ただ泣いていた。彼女は泣くことによって、その想いに対する決意を固めたようだった。 保護結界の最後の一角が甘い気持ちに蕩かされていく。 突き崩す最初の一撃はセスの猛アタックだった。頼みもしないのに毎日、馬を駆って急峻な山を越えて来た。馬は清んだ優しい瞳でカルナに甘えた。それは男爵がいかに馬を疲れさせず脚に負担をかけさせず上手に乗りこなしているかという証であった。 馬は姫に撫でて欲しいと頭を寄せた。セスの人となりを知るには十分だった。 「それからずっと、私はあなたの想いに、この体の魂を繋げること、願いと、願いを掛け続けた。ずっと、ずっと、私、あなたのことが…」 しばらく泣いた後、彼女は少し落ち着いた様子で彼女を見始めた。 「あなたの願い、あの時を思い出す時、私は恐ろしくなった…それは、私があなたに願いを掛け続けたことを、あなたに見せつけるため…あなたを苦しんで死なせるのは、私にも良からぬものを思い出させるから」 カルナは刀掛けから夫のバスタードソードを抜いた。 いきなり「何をするのか?」と夫が怯む。姫はその隙を突いて剣を大上段に構え、一気に斬り込んだ。セスもむざむざ奇襲されはしない。体力面でははるかに勝る。妻を飛び越え、隠し戸からシーフダガーを取り出す。それは盗賊のスペシャルアイテムで持ち主の俊敏性を十倍する。 風よりも早くカルナの喉笛をかき切った。 ――ように ――――見えた。 「ひゅっ」 「ぐはあっ?!」 男とも女ともつかぬ断末魔の叫びが屋敷に響き渡る。バサバサと衣のシルエットが優雅に宙を舞った。バスタードソードの切っ先は男爵の胸を刺し貫き、ダガーは姫の喉笛を裂く。 確かに二人はそのような影を落とした。だが、ドサリと音を立てて落ちたものはそうでなかった。 「グォレンダァアアアア!!」 もがき苦しみのたうち回る不定形の軟体。それは人ならざる、人の外に棲まう存在であった。そいつは無数の棘を生やしシュウシュウと瘴気の泡に溶けて行った。 「危ない所だったわ」 肌も露わな甲冑に身を包んだカルナ。その隣で息を整えている夫。 「ああ…」と相づちをうつ。 「ギロック…お父様も酷なことをするものですわ」 姫は信じられぬと虚空を仰ぐ。「カルナ…さっきは言い過ぎた。すまん」 男爵は平身低頭する。妻はあわてて頭をさげる。 「謝るのはこっちよ。貴方を危うい目にあわせたんですもの。この件がしれわたったら、わたくしは」 さめざめと泣くカルナに夫は優しく声をかける。 「案ずるな。そう思って宮中の魔導士に片っ端からまじないをかけてもらったんだ。まさか魔導士が束になってかかるほどの大物が憑いていたとはなあ」 ようやく、腰を据えた男爵に妻が謝り続ける。 「いいえ。私がもっとギロックに早く気づいていれば」 「しかし、あんなもの、いつ?」 訊かれて姫は少し口ごもり…何度も迷った末に答えた。 おそらくセスが姫のもとに日参していた頃であろう。父は婿候補に猜疑心を抱き鈴をつけようとした。娘を想う気持ちが敵愾心も募らせたのだ。ギロックは男女の不仲を栄養にする魔導生物だ。目に見えぬ強力な結界を張る習性もある。それが長年に渡って男爵の性格を歪めた原因でもある。 夫婦はうすうすその存在に感づいていた物の、いざ祓う瞬間までその正体をつかみきれていなかった。夫婦が息をぴったりあわせ、感情を昂らせ、殺意に近い愛憎を発散させたからこそ、熟れ時とギロックが判断したのだ。 そいつは犬も食わぬ夫婦喧嘩を頭から丸かじりする。そのために姫は矮小甲冑を着こみ夫を出迎えた。夫も万全の根回しをしていた。 「さて、どうするね。わが君よ」 セスはくすぶり続ける死骸を眺める。 「何分初めてのことですから、今回はギルドに処分を頼みましょう」 彼女はそういうなり水晶玉で出張サービスを呼び出した。夫は重いバスタードソードを奥に運び、研ぎ直す準備を始めた。妻の作業場に初めて足を踏み入れる。ギルドのスカベンジャーが怪物を片付ける間、カルナは冒険者登録の申請用紙を記入し終えた。そして夫に告げた。 「プロの手並みはあらかた見て盗みましたわ。エンカウント時の後始末は私一人でもできそうです」 男爵は微笑んだ。「その意気だ。迷宮のなかでも二人三脚でよろしくたのむよ」 「こちらこそ」 姫は即答した。二人で副収入を稼ぐ日々が始まる。
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