夏祭りの喧騒 3

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夏祭りの喧騒 3

   急いで通話ボタンを押し、かじりつくように耳に押し当てた。 「北斗!? 駿! 駿は? そこにいるのか?」  息せき切って訊いた俺に、その返事は朗報とは言えなかった。 『いや。悪い、逃げられた』  こっちの事情を知らない北斗が、苦笑混じりに答える。 「逃げた? じゃあ今どこにいるか……」 『わからない。だから引き返してきた』 「うそ」  全力で走れる状態じゃないのに、北斗でも追いつけなかったって……。 『あいつ見失ったら、俺にはもう心当たりないから』  そりゃそうだろう、といつもなら突っ込むところだけど、とてもそんな気分になれない。 「今どこ?」 『会場の入り口』 「入り口? 女子に会った所?」 『そう。追いかけてった時まだいたから、俺が戻るまでここにいてくれって頼んだんだ』 「ならそこまでは戻ってきてるのか」  言いながら、メイン会場になっている運動場の方に目を遣る。  雅也と孝史も察したようで、互いに顔を見合わせてホッと息を吐いた。 『ああ。駿は戻ってないとしても、お前らも出てきてないっていうから……電話してみた。もしかしてあれから動いてないのか」 「うん。ちょっと…ごたごたしちゃって」  言い淀むと、こっちの状況も思わしくないと察したらしい。 『なんだ? まだ誤解、解けてないのか?』  呆れ気味に、それでも心配そうに訊いてくる。 「ううん、それはもういいんだ。けど、もっと深刻な事態に…なって……」  話している内に、さっきの諸々を思い出す。 『瑞希? もしもし? どうした? 電波状態よくないぞ』  その声に、堪らず縋りついていた。 「どうしよう北斗、どうしたらいい? 駿が……駿がッ……」 『? 駿がどうした? ってか、追いかけてったのこっちだぞ』  からかうように返しかけた声が、すぐに緊迫したものに変わった。 『久住に電話でも入ったのか』 「電話、そうだ! その手があった」  さっきは出なかったけど今なら。そう思い意気込んで答えたら、 「無理です、先輩」  携帯越しの遣り取りで気付いたらしく、久住が口を挟んだ。 「何で?」 「あいつも俺も、携帯置いてきたから」 「え! ウソだろ」 「俺のはこっちじゃ使えないんです。それに駿も、田舎では必要ないと言ってました。俺が持たないなら自分もいらないって」 「………」  俺達との連絡はどうするつもりだったんだ、と言いたい。  ひょっとして会う気なかったんだろうか、と逡巡したところに、 『今の声、久住か?』  北斗がするりと訊いてきた。 「うん、そ…ああっ、そうだ!」  北斗の口から名前が出て、もう一つの大問題も思い出す。「久住! 久住にも……とんでもないこと…させた」  顔面蒼白になり、両腕を取られた智哉の腫れ上がった顔に目を遣った。  こんな事―暴力行為が学校側に知れたら、出場停止になるんじゃなかったか。 『おい、落ち着いて喋れ。久住がどうしたって?』 「久住が……久住に、人を殴らせちゃったんだよッ」 『殴った? なんでまた……』 「先輩、先輩のせいじゃない。責任感じることないです」  腑に落ちない風の北斗と、完全に落ち着きを取り戻した久住の声が重なり、北斗にもその声がしっかりと届いた。 『瑞希、久住 傍にいるんだな』 「う、うん」 『ならちょっと替わって』  そう言われ、頷きかけて――止めた。 「嫌だ」 『なんで?』 「だって、……」 「先輩、聞こえました。大丈夫です。それ、借りてもいいですか?」  携帯を指さして言うのに、後退って首を振った。 「駄目だよっ、だって久住のせいじゃない。俺が…俺達が悪いんだ。駿は巻き添え喰っただけなんだ。お前も、だからっ」 「先輩、貸して下さい」  言いながら俺へと出しかけた手が、ふいに止まった。「いや、ここに来る方が早いか」  その独り言に、ドキッと心臓が跳ねる。  メイン会場へと続く通路の方を振り返り携帯に耳を当てても、もう何も聞こえない。  俺達の言い合いを聞いてさっさと切ってしまったらしい。  途絶えてしまったのを確認して小さく息を吐き、仕方なく胸ポケットに仕舞う。  借りたハンカチでもう一度顔を擦り、それはズボンのポケットに押し込んだ。  久住の言葉通り、さほど時間を要することなく通路にその姿を捉えた。  すぐに見つけたのは一人だけ急いでいるから、というわけじゃない。  歩く人の間を縫うように走ってくるのを目に、なぜか言いようのない安心感が生まれる。   何一つ、解決してはいないのに。  これが北斗の持つパワーなんだろうか。  全ての負の感情をも消し去ってしまう、圧倒的な正の気質。  窮地に立てば立つほど、それを強く感じる。  田舎の後輩が逃げもせず、近付いてくる北斗になぜか釘付け状態だ。  そんな中、智哉だけが、二人掛かりの歯止めを強引に外して立ち上がった。  ややこしくなる前に立ち去るのかと思いきや、血の滲む口元を拭おうともせず、挑むような眼差しを北斗に向け、正面から待ち受ける。  その胸中を、この場に居合わせた誰も、見抜く事はできなかった。 「瑞希っ! お前は~、替われって言ってんのに………」  それだけ喚いた北斗が走るのを止め、すっかり上がってしまった息を整えるように歩き始めた。  ここからでも頬を伝う汗が見える。  陸上部に在籍していた駿は、短距離走者として近隣の中学にその名を轟かせていた。  怪我しているとはいえ、そいつを追って行ったんだ。激走と言っても過言じゃない走りを強要されたに違いない。  本当ならこのまま駆け寄って、駿の行きそうなところを割り出して、すぐにも捜しに行きたい。  なのに一歩も動けないのは、今の状況を説明できないせい。  それは俺だけに留まらなかったようで、安心はしたものの誰も迎えに行くことも、声をかける事すらできずにいた。  ここでの事が片付かない限りこの場所を離れられない。  それも、それぞれの胸の内に共通する思いだった。  近付いてくる北斗の左手に、白い布の塊。  大方、門の所で待っていた女子がハンドタオルでも渡したんだろう。  今の疲れ果てた様子を目の当たりにすれば、母性本能に目覚めても不思議じゃないのかも。  それにしても、と思う。山崎が悔しがるはずだ。あろうことかその貴重なタオルは、北斗の手の中でぐしゃぐしゃに握り潰されていた。 「で、何だったんだ、さっきの電話は。駿がどうしたって?」  普通に会話できる状態に落ち着いたらしく、話しかけた北斗が「あれ?」と、目を瞠った。 「なんか人が増えてないか?」  すぐ傍まで来て、そんな事を口にする。  短い時間、しかもドサクサの中にも拘わらず人数の確認はしていたらしい。  その記憶力にも驚くけど、咲ちゃん達のところにいたはずが、なぜもうここにいるのか、俺にはそれも驚きだ。 「早かったですね、先輩」  久住に言われ、そっちに目を遣った北斗が、胸元の携帯に視線を落として軽く頷いた。 「瑞希に電話入れたのは、マユ達と別れた後だ」 『真由』!!?  あの委員長をすでに呼び捨てるのか? というか、よく許したな、と言いたい。  雅也達も同じだったんだろう、揃って複雑な眼差しを一点に向ける。  俺達の内心に気付いているのかどうなのか、つかつかと歩み寄ってきた北斗が、険しい眼光で自分を睨み付ける一人の男の前で足を止めた。 「久住に殴られたのって、こいつ? 血が出てる」  自分の口元を指さし教えるけど、そんな悠長な事を言ってる場合じゃない。  案の定、余計なお世話と言う代わりに剣呑な眼差しを向けた智哉が、早速悪態を吐いた。 「あんたが、駿に逃げられたのろまな野郎か」  暴言としか言いようのない台詞をいきなり浴びせられ、さすがの北斗も目を見張る。  呆れて当然、と思ったら、俺とは違うところに引っ掛かっていた。 「あれっ、お前、駿のこと名前で呼ぶのか」  驚きを隠しもせず話し掛ける。その声音には明らかに親しみがこもっていた。  後輩の亀裂が決定的になったのは、同級生が駿だけ急に苗字で呼び始めた事だと、彼の過去を明かした時、北斗にも話した。それを覚えていたんだ。  そう言えば智哉の口から駿の名前が出たのは今が初めてだけど、一年前、二人の間にあんな出来事があったなら、敢えて触れないようにしていたとしか考えられない。  そうと気付いて、余計な事をぶちまけた将太にもまた腹が立ってくる。  だって、この二人以外にその事実を知っていた人間はいなかったはずなんだ。  智哉にそれを他言する気は更々なかった。でなければ、将太に対してあんな風に怒気を露わにはしないだろう。  ただ、たとえそうだとしても、こいつに駿がされた事を思えば、黙って見過ごすなんてとてもできないけど。 「なんだ、田舎でも名前で呼ぶ奴、ちゃんといるんじゃないか」  安心した風に頷く北斗を横目に、これまでの諸々をどう伝えようかと思案していると、挑発が不発に終わった智哉が、苛ついたように声を荒げた。 「ああっ? 俺があいつをどう呼ぼうが、あんたに関係ねえだろ」 「関係? いや、あるんじゃないか? だって俺、駿の想い人だし」  自分を指差して言う。  またか、と言葉を失った俺よりも、智哉が冷然と突っぱねた。 「はっ、よく言う。そいつにまんまとに逃げられたくせに」 「あー、それは駿の計画的犯行だ。あいつ足以上に頭の回転速いから。証拠はこれ」  言うのと同時に、目の前に左手を突き出した。  握り締めていた拳が開かれる。  パラリと広げられたのは、タオルではなく駿の左腕を吊っていた三角巾だった。 「あ…の馬鹿っ、包帯捨てて走ったのか」  過激な運動禁止なのに、と舌打ちして呟いた久住に、北斗も苦笑混じりに頷いた。 「その先の交差点で追い付きかけて呼び止めたんだ。そしたら信号が変わるのと同時に包帯外して、そのまま車道に捨てやがった」 「そうか! 今、祭りで人も車も多くなってる」  さっき歩いてきた道の交通量を思い出し、そこに投げられた幅広の三角巾を想像してゾッとした。  万が一にでも事故に繋がれば、故意に捨てた駿の行動を、「見た」と証言する人間が出るかもしれない。  それでなくても田舎の人間が駿達親子を見る目は、未だ同級生以上に冷たい。 「そういう事。放って行かないと読んだんだろ。見事に嵌められた」  一旦広げた三角巾を、元通り左手の平に巻き付けながら言う北斗に、感心半分久住が零した。 「即行で逃げたわりに冷静ですね」 「あいつは我を忘れる、なんて事ないからな」  後輩の暴挙を皮肉る事も忘れない。 「…先輩、普通に責められる方が数倍マシなんですけど」  からかわれ、心底嫌そうに返す久住を見て、北斗がプッと吹き出した。  会話だけ聞いてると、さっきの出来事は夢だったんじゃないか、とさえ思えてくる。  あまりにも不似合いなほのぼのとした空気。  それが、クックッと押し殺した笑い声に瞬時にかき消されてしまった。 「相原の想い人かぁ、そりゃいいや」  嫌がらせ以外の何物でもない将太の口調に、北斗がおもむろに顔を向け、そこで初めて驚いたように目を瞠った。  その頬にも、殴られたとわかる痕がくっきりと残されていたからだ。  当の将太は、『野球』ではなく、俺の『街での幼馴染』という意味で、すでに興味の対象にされている北斗の意識が、ようやく自分に向いたからか、やけに満足そうに見えた。 「なら、ショックは他の奴らより大きいかも」  うんうんと頷いて同情する風を装いながらも、表情は嫌味なほど明るい。 「ショック? 何の話だ?」  将太に訊きかけた北斗がふっと口を噤み、俺と久住に目を遣る。  それを避けるように顔を逸らしてしまった。  まともに説明できない俺はともかく、絶対服従の久住までが黙り込み、さすがに異変を察したらしく、居合わせた面々に視線を巡らせた。 「孝史、何があった?」  北斗が俺達の代りに選んだのは、一番実直で公平な孝史だった。  その孝史も例外ではなく、言い辛そうに口篭る。  ただしその沈黙はさほど意味を成さなかった。  と言うのも、久住が人を殴ったと知った時点で、非常事態が起きた事も、それに駿が関係している事も、薄々勘付いていたからだ。  ただ、想像でしかない現状ではさすがに迂闊な言動を控え、情報収集に徹するつもりだったんだろう。
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