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翌日真鍋家に向かうと、玄関で夕仁くんに出くわした。
夕仁くんはジャケットに細身のパンツというキレイめカジュアルな服装だった。これからどこかに出かけるのかもしれない。
「先輩。真昼兄さんは今日、試合に出られるみたいですよ」
「それはよかった。夕仁くんはお芝居の稽古?」
「実は今日、オーディションなんです。どうしてもやりたい役なので少し緊張してます。……それで、あの、お付き合いの申し出、やっぱり撤回してもいいですか?」
「もちろん。でもどうしたの? 何か心境の変化でも?」
夕仁くんはジャケットのポケットに手を突っ込んで無意味にパタパタさせた。
「子供が痛みを知るのは、転んで苦痛を感じたときじゃなくて、その苦痛の名前が『痛い』だと知ったときです。僕も同じでした。とっくに恋をしていたのに、これを恋と呼ぶんだと知らなかった。でも、もう気づきました。だから先輩の手を煩わす必要がなくなったんです」
「じゃあ夕仁くんは十六歳の恋を手に入れたんだね?」
あたしの言葉に、夕仁くんは目を伏せて曖昧に笑った。
「はい。想像よりずっと苦くて酸っぱいものでしたけどね。でも大事に埋めて演技の肥やしにするんです」
夕仁くんがふと伏せていた視線をあげてまっすぐにあたしに目を合わせてきた。
「好きです」
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