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九条春臣の日常
「前期の中間試験は桜宮さんが1位だったね」
「去年の期末は九条くんだっけ?」
「そう、あの2人が1年の頃から交互に学年1位取り合ってるからさ。この感じだと期末は九条くん?」
「でもそろそろ桜宮さんが連続1位取るかもよ」
「あ、噂をすれば」
話の話題となっていた『九条くん』こと『九条春臣』——僕のことを話していた女子生徒たちは、ちらちらと僕の姿を盗み見している。
僕は女子生徒たちの横を通り過ぎるとき、「こんにちは」と声をかけてゆったりと微笑んだ。
その笑みを見たからか、声をかけられたからなのか。僕が通り過ぎた後にかん高い奇声——叫び声が聞こえてきた。
✳︎
「お疲れ様です、会長」
「いつも早いですね、桜宮さん」
この高等部の生徒会副会長であり、先程の女子生徒たちが話題に出していたもう1人の人物——桜宮天音はノンフレームの眼鏡を手のひらで押し上げた。
飾り気のないフレームが、窓からの陽射しに反射して輝いている。
自分で言うのもなんだが、僕と桜宮さんはこの学校で知らない者がいないほどの有名人である。
生徒会執行部でもある会長、副会長であるということ。1年の頃から定期試験の1位と2位を交互に取り合っているということ。
文武両道、容姿端麗、品行方正など、僕たちを形容する言葉が多く飛び交っているこの実情は、いやでも本人たちの耳にも入ってくる。
そう、僕らはある意味で一挙手一投足を見られている——監視されているようなものかもしれない。
「今日の資料はこれだけですか?」
「はい。昨日の残りと追加分で来たものです」
僕は、机に置かれた各委員会、部活等からの申請書や報告書、秋にある学園祭の草案などが置かれていた。
それらの書類を手に取って、パラパラと目を通し確認する。特に急ぎの案件もなさそうなので、書類を元の位置に戻し椅子へ腰かけた。
少し離れたところで書類整理をする桜宮さんを見つめる。
「中間の結果が出ましたね」
「そうですね」
「皆さん話題にしてましたよ。また僕たち2人がトップを独占していると」
「そうですか」
「今回は、あえてどこを間違えたんですか?」
桜宮さんはくすくすと笑い、「何を言っているんですか」と呟く。それは小鳥のさえずりかのようにか細く、歌うような声色。
書類整理の手を止めて、僕を見つめ返してきた。眼鏡のレンズ越しからの瞳は真っ直ぐに僕を見つめ、子首をかしげて微笑んだ。
「会長もそんなくだらないことをいう暇があるなら、その書類にサインして回してください。わたしが押印していきます」
「わかりました」
僕は半ば桜宮さんに押し切られながら、先程の書類へサインをし、それを1つ席を空けて座る桜宮さんへと渡していく。
紙の擦れる音、ペンを滑らす音、そして2人の息遣い。
梅雨の晴れ間。
湿気を多く含んだ風は、そこまで気持ちがいいとは言えない。それでも、雨続きでどこか沈んでいた気持ちは澄んでいく気がする。
僕はワイシャツの第1ボタン外し、首元をクリアファイルで扇ぐ。
「……夏が近い」
「そうですね」
「エアコンも完備されてよかったです」
「会長は夏、苦手ですもんね」
「どうして、そう思う?」
僕は3階からの景色を眺めながら桜宮さんへ尋ねた。
風が凪ぐ。
桜宮さんは「会長」と呼ぶと同時に開襟した襟元と中に着ていたTシャツを掴みひっぺがした。
ワイシャツの第2ボタンがカツンと音を立てて床に転がる。
鎖骨から左肩まで丸見えになった僕の肌を、桜宮さんの指がツーっとなぞる。その感触に全身が粟立つのを感じた。
「どうしてココを選んだんですか?」
「ここ?」
「この、学校です」
不意をつく質問に、一瞬出来た不自然な間。その一瞬を逃さない桜宮さんは、ふふっと笑い、僕を見上げた。
「この学校、高等部からは水泳の授業ないですものね」
「それで?」
「これ、隠すの大変ですものね」
桜宮さんは僕の鎖骨から襟首に指を走らせ、そして肩甲骨あたりまでシャツをずり下げた。
そこには、僕の背中を彩る極彩色の模様の端々が見え隠れしていた。
「さすがに、コレは見つかったら大変ですものね?」
「そうですね。これはちょっと人には見せられないですね」
僕はくつくつと喉を鳴らして笑い、ずり落ちたシャツをたくし上げて制服を整える。
さて——桜宮さんには色々と聞きたいこともありますが……。
「背中、全部見ますか?」
「結構です。以前見ましたので」
「——いつ」
「それは、秘密です」
話はそこで終わりと言わんばかりに、桜宮さんは右手人差し指を唇に当て微笑んだ。そして何事もなかったかのように机へ向かい、書類へ押印していく。
本当に、聞きたいことが増えてしまった。
僕は肩をすくめ、ワイシャツのボタンを止めようとして、第2ボタンがないことを思い出した。
「どうぞ」
桜宮さんがタイミングよくボタンを差し出してきた。それも引きちぎられた時の糸がついたまま。
「ありがとうございます」
「わたしがボタン取ってしまいましたから。申し訳ありません」
桜宮さんは深々と頭を下げた。そして胸元まである長い髪が、さらりと前へ落ちる。
いつもは髪に隠れている細く生白いうなじが目に入った。
「桜宮さん」
「はい?」
桜宮さんが顔を上げた瞬間、僕は彼女の顎を掴み、自分の方へ顔を近づける。顎を持ち上げ、お互いの鼻先がつきそうな距離で見つめた。
「また、ピアスの穴開けました?」
「なぜです?」
「だって、1ヶ月くらい前までは右6だったのが9に増えてますし。左も7くらいないですか?」
「——残念。左は8ですよ」
「見落としてるところがあったか」
「よく、気が付きましたね」
そう言うと、桜宮さんは僕の手をそっと払いのけるように押し返す。
僕もそっと顎から手を離し、彼女の顔にかかる髪を耳にかける。その耳にはいくつもの穴の痕があり、軟骨にも開けられた穴を見て、眉をひそめる。
「軟骨は痛そうですね」
「慣れればどうということはないですよ? 会長も……開けます?」
「僕はやめておく。痛いのは苦手なんだ」
「——そんな派手なモノ、背中に刻んでおいて?」
「コレはコレ。それはそれ」
桜宮さんはいつも見せる柔和で花綻ぶような笑みではなく、目を細め妖艶で冷ややかな笑みを浮かべる。
そして頭を軽く左右に振り、耳にかけた髪を落とした。艶やかな黒髪が、いつもの桜宮さんを形成する。
「桜宮さん、ピアスは舌とかヘソとかにもしてるんですか?」
「気になります?」
「多少?」
「——会長も、背中以外にもソレ、入れてるんですか?」
「——気になる?」
「多少?」
お互い見つめ合う、しばしの沈黙。
そしてこの沈黙を破ったのは校内放送だった。
『2-F、桜宮天音さん。確認事項があるため職員室へ来てください。繰り返します——』
2人でスピーカーを眺めていると、桜宮さんはイタズラがバレた子どものように、クスクスとおどけて笑った。
「残念、時間切れです」
「そうですね。残念ですが」
「それでは職員室へ行ってきます」
「もう仕事もないので、そのまま帰ってもらってもいいですよ。残りは僕がやりますので」
「——じゃあ、お願いしますね」
桜宮さんはドアに手を掛け、僕をじっと見つめていたけれど、にこりと微笑み会釈をして生徒会室を出て行った。
僕はパイプ椅子に寄りかかり、ギシギシと軋む椅子を前後へと揺らす。
「どこで会ったんだろう……」
僕は前髪をかきあげながら天井を見上げ、大きく息を吐いた。
思い当たる節が多過ぎて、どこで出会ったかすら予想できない。ただ、この背中のモノを見ているとなると話は変わってくる。
だからと言ってわかるものでもなく……僕はひとまず考えるのをやめた。
そして桜宮さんが押印した書類を手に取り眺める。曲がることなく真っ直ぐに押された印を見て、自然と微笑んでいた。
僕はスマホを取り出して電話をかける。ワンコールで出た相手に要件だけを伝えた。
「今からいう人物を調べてもらえるかな。名前は『桜宮天音』。どれくらいで調べられる? ——うん、じゃあ2日後に。よろしくね」
僕は電話を切ると窓際に立って外を眺めた。グラウンドでは野球部とサッカー部の練習風景が目に入ってくる。
風が髪を撫で、カーテンをふわりと揺らす。
その光景が桜宮さんの長く伸びた髪と重なって見えた。
「いつかもう1人の桜宮さんに会いたいものです」
——そう、でも。きっとすぐに会えるはず。『裏側』にいる僕たちなら、必ず。
背中の鳳凰が歓喜の声をあげている気がして、僕は1人口元に笑みを浮かべた。
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