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今日もまた、一人。日付が変わってしばらく経った街の中をうろついている。否、気持ちの上では彷徨っているという方が近いかもしれない。
学校でも、家庭でも、自分の居場所が無いように感じて、目的もなく深夜徘徊をしているどうしようもない人間が、僕だ。
深夜出歩いているからと言って何か得られるものがある訳ではないのだけれど、火に惹かれる蛾のように訳も分からず半ば習慣的に繰り返してしまっている。
全てが曖昧に溶け合う時間。家を出て思い切り夜の青い空気で呼吸をする、そのささいな充足感のために毎日息の苦しい学校へ行っている節さえあった。深い藍色の空気を吸い込んだら、自分もその空気に溶けこんでいけるような気がして。
もちろん今日は平日だから学校に行かなければいけない。こんなことばかりしているから、当然いつも寝不足気味だ。さっさと帰って、寝なければ。理性はそう訴えているものの、僕の足は止まらない。
ずっと真夜中だったらいいのに。昼間の空気は僕の喉から水分を奪う。ひりついて攻撃的な、昼間の空気と湿り気を帯びてまろやかな、真夜中の空気。
同じ空気のはずなのにどうしてこんなにも違うんだろう。夜の少し湿ったような、静謐な空気を酸素ボンベに詰めて昼間に持ち歩けたらどんなに良いだろうか。そうしたら学校も息苦しくなくなるだろうか。
できるわけのないことを取り留めもなく考えながら歩き続ける。
もう少しだけ、と結局いつもより遠くまで来てしまった。東の空が白み始めている。
流石に寝ないで学校に行くのはきつい。急いで帰ろうと、近道をするため、普段は通らない大きな橋の下を通って帰ることにした。
橋の下は街灯もなく、本当に暗い。足元に何か落ちていたとしてもきっと気づけないだろう。急いで通り抜けようとして、壁面の暗がりに違和感を持った。何かが描かれている?
昨日学校から帰ったとき、ここにそんなものはなかったはずだ。少し近づいて、ポケットから取り出したスマホのライトで照らしてみる。
人工的な白々しい光に照らし出された壁面に息をのんだ。
中央に大きく人の横顔らしき輪郭が荒々しく描かれ、その周囲を黒い靄のような影が取り囲んでいる。横顔の口元は酷く歪んでいて、靄に苦しめられているかのようだ。目元は靄に覆い隠されていて見えないが、なんとなく泣いているように見えた。
見ていて気持ちの良い絵ではない。
しかし緩やかな曲線と鋭い直線が混在したその画風は、美術なんて何も知らない僕にさえ「芸術」というものを感じさせた。
その絵はただひたすらに荒々しく、重々しく圧倒的な存在感を伴ってその場を支配していた。描かれている下はただのコンクリートなのに、まるで高価なキャンバスに描かれているかのように。
普通に市販のスプレー缶を使っているのだろうが、とてもそうとは見えない重さがあるように思う。目の前の絵はもう乾いてしまっているが、これを描いた人の心情はまだ生々しく息づいているかのようだ。
──これが描かれるところ、見たかったな。
柄にもなくそんなことを思った。
それから数日後。
僕はまた深夜徘徊をしている。あの絵は、その日のうちにシルバー人材センターの老人たちの手で消されてしまったらしい。彼らにはあの良さが分からなかったのだろうか。そんなことになるのならあの時写真を撮っておくべきだった。
もしかしたら僕が気づいていなかっただけで、今までも描いては消されを繰り返していたのかもしれない。
今日あたり、また描くんじゃないかな。そんな淡い淡い微かな期待を抱いて。わざわざ懐中電灯を用意してあの橋の近くまで来てしまった。
いつもより少しだけ早めの夜1時過ぎ。僕以外に出歩いている人なんていないハズの時間帯。
橋の下には人影があった。
かすかな水音と、スプレー缶を振る音が聞こえる。
僕は慌てて近くのベンチの影に隠れた。盗み見ているようでどうにも居心地が悪い。
もう描き終わる間近だったようで、その人影は僕とは反対方向に慌ただしく行ってしまった。逸る気持ちを抑えつつ、人影が戻ってくる可能性を考えて一応しばらく経ってからその絵の前に行く。
今日の絵は、なんというか、赤い。
全体的に赤くて、痛くて苦しい感じがする。頭を抱えて蹲った人の姿が隅にいて、その人に向かってひたすらたくさんの赤い矢印が描かれていた。
たったそれだけの絵なのに、何故かそこから目が離せない。ただのコンクリート上の薄っぺらいインクなのに、視線が引きはがせない。そうさせるだけの重力のようなものをその絵は確かに持っているのだ。
乱雑に引き伸ばされた赤が思考を侵食してきそうだった。
じっと見ていると、絵の中で蹲る人は頭を抱えた腕の中で、向かってくる矢印をきつく睨みつけているような気がしてきた。もちろん目線は見えないのだけれど。ただそう在ってほしいという僕の願望かもしれない。
相手が隙を見せるのをひたすらじっと待って耐え忍ぶ、しなやかな四足獣のような獰猛さがどこか垣間見えるように感じられた。
瞬きする時間も惜しく、ひたすら壁面を見つめ続けて。はっと気づくと思っていたよりも時間が経っていた。
なんだかこれを描いた人の気持ちが少し分かる気がする。僕は親からも、教師たちからも、当然クラスメイトからもこんな視線を感じる。
優秀な両親は当たり前のように子どもに自分たちと同じレベルを求める。幸い妹はその期待に完全に応えているが、僕は応えられない。せいぜい平均程度が関の山だ。そんな僕を見る両親の目はとても生あたたかい。いっそのこと冷ややかな目で見てくれれば良いのに。
そんなことを考えながら絵を写真に収めた。名残惜しく絵から視線を引きはがし、帰らねばと足を進める。しかし数歩進んだところで地面に落ちていた硬い何かを踏んだ。怪訝に思い、再び取り出した懐中電灯で照らす。その光で浮かび上がったのは、見慣れた形のネクタイピンだった。
──僕の通う高校指定の、ネクタイピン。
案外作者は身近な人なのかもしれない。
もちろん学校帰りの同じ高校の生徒が落としたものかもしれない。よく似たデザインの全くの別物かもしれない。でも僕はなぜだかこのネクタイピンがこの絵を描いた人のもので、その人が同じ高校に通う生徒であると確信していた。
円い光で照らされたネクタイピンが、まるでステージのスポットライトを浴びるプリマドンナのように輝いて見えた。
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