愛とお雛様

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 流しの横にある土間に、去年と同じように赤い花緒(はなお)の下駄が置いてあった。愛は足を入れてみる。ところがどうしたことか、一年前は大きいくらいだった下駄が、履いてみると踵がはみ出ている。 「まぁ、やっぱり小さくなったわね。足を痛めるかもしれないから、ズックにしたら?」 「だいじょうぶ。まだはけるもん」  愛はどうしても下駄が履きたかった。裏庭の地面に散らばる真っ黒い石炭。雑草の間にある破片の上を、下駄で歩くのを楽しみにしていたからだ。  踏みしめるとキシキシと軋んだ音が何とも言えず面白かった。  勝手口から十歩ほどいった先に石炭小屋と一緒になった風呂もある。愛は風呂の前を行ったり来たりしながら遊ぶのだった。  炭鉱長屋は風呂も長屋。浴室は隣同士が内壁で仕切られていて、二個一(にこいち)になっている。石炭で沸かした湯は、角がなく軟らかだ。壁一枚隔てたお隣から、湯が溢れる音がするし、ふんふんとおじさんの鼻歌が聞こえてきて、毎日家で入る風呂とはまったくの別次元のものだった。  その夜、愛は基子と一緒にお風呂に入った。身体を洗う祖母は乳房は母親のとちがって、しぼんだ葡萄みたいだった。それに、お腹に不思議な線もある。気になった愛は思わず尋ねてみた。 「ねぇ、それどうしたの?」 「それ? あぁこれね。愛ちゃんが小さなころに手術したときの跡よ。ほら、結婚式に出た、戸ノ内の大叔父さんのお家覚えているかしら?」 「ペチカのあるおうち?」 「そうそう、あのお家に赤ちゃんのあなたをあずかってもらって、正幸くんと、弘子ちゃんと、みんなでオムツ変えるところを見ていたんですて」 「ええ、いやだ、それ」 「赤ちゃんだもの、恥ずかしくないよ。それに、おばあちゃんの子供は康子しかいないから、あなたをあずけて、毎日お見舞いにきてくれたのよ」 「お母さんに、どうして兄弟がいなかったの?」 「どうしてーー、そうね、みんな、病気で亡くなってしまったのね」  戦後すぐのころは北海道も食糧難だった。国から配給される食料が少なく、基子の乳の出も悪かったのだそうだ。粉ミルクはなかなか手に入らず、代わりに、米のとぎ汁を飲ませたのだという。 「おじいさんのお弁当なんか、新聞紙にくるんだアルミ缶の弁当箱にじゃがいもが、ころんころんと、二つしか入っていなかったのよ」  湯船につかりながら康子は笑った。  そうか、お母さんの兄弟たちは亡くなったのかーー。この時の愛はまだ九歳で、祖母の話を、ただまっすぐに受け止めることしかできなかった。それが、どんなに悲しい出来事だったのかを理解するにはもう少し、時が必要だった。  夜、蚊帳を吊った部屋でおばちゃんの隣にお布団をひいた。仏間に祖父が一人で寝ている。灯り取りの豆電球を見つめながら、愛は喉の奥にごろんとした塊が出来ているのを感じた。夜になって急に母が恋しくなった。泣きたいのを我慢しながら愛はぎゅっと目を瞑った。    
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