愛とお雛様

4/4

19人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
 夕張に着てから一週間が経った。ここまで長かったような、反対に短かったような気もする。父と母が迎えにくるまで、まだ五日もあった。  そしてこの日の暦は八月七日、旧暦の七夕様にあたる日だった。 「愛ちゃんの浴衣、今年で最後かもしれないわね」  基子に兵児帯(へこおび)をしめてもらうと、愛は夕張の商店街で買った新しい下駄を履いて、長屋の玄関先へと出た。前庭の土手に生えているエゾヤナギの木。枝に飾った七夕飾りが風に揺れていた。桃色の短冊には『きれいな花よめさんになれますように』と、愛の願いが記してある。  坂道を下った空き地に、子供たちが集まっていた。お楽しみの『ロウソクもらい』が始まるからだ。  町内会のおじさんに連れられ子供たちは『ロウソクだーせ、ロウソクだーせと、出さなきゃカッチャクぞ、おまけに食いつくぞ』と、言いながら、長屋の家々を訪ね歩いた。“カッチャク”とは北海道弁の爪でひっかくにあたる。子供たちの歌声に、玄関から家の人が出てきて、ロウソクの代わりに、子供たちにお菓子を渡す。本州にはない、北海道ならではの風習だった。  その夜、すっかりくたびれた愛はご飯も食べずに寝てしまった。  真夜中、愛は無性に便所に行きたくなって目を覚ました。けれど、便所に行くには、祖父の寝ている仏壇の前を通る。障子を開けた縁側の奥にあるうえに、便器は昔ながらの汲み取り式だった。ツンと鼻をつく臭いと、穴の上にしゃがんだときの、ひんやりする感覚が、なんとも不気味で怖かったから、できることなら行きたくないと思うのだった。  布団の中でもじもじとしていたが、どうにも我慢できずに起き上がる。蚊帳を抜けて、襖を開けて祖父の足元を横切りる。障子をそろりと開け、縁側に出ると、すると、どうしたことか、不思議なことが起こった。  長屋は平屋建てだったのに、いつの間にか階段が出来ているではないか。いったいいつからあるのだろう。愛は便所に行きたかったのも忘れて、階段を上がった。二階は広く長い廊下があった。真夜中だったはずなのに、いつの間にか昼間のように明るかった。  障子を開けてみる。広い畳の部屋の真ん中に汲み取り式の便所があった。いくらなんでもこんなところで用は足せない。愛は廊下に戻った。少し行った先の障子を開ける。驚いたことに、そこに十段飾りの立派なお雛様が飾ってあった。  不意にばたばたばたと廊下を裸足で駆けてくる足音がした。振り返ると、十二、三歳くらいの少年と少女、五歳くらいの小さな男の子に囲まれていた。 「お前が愛か?」  少年の問いに気圧(けお)された愛は小さく頷いた。 「私たちこれから、このお雛様の結婚式に参列するの」  少女の言葉はなんだかの合図だったのか、ギシギシとどこからともなく音がして、到着した牛車の中から等身大のお雛様が降りてきた。三人の女官をともない、しずしずと長い廊下を歩いてゆく。大広間では、お内裏様と大臣たちが、お雛様の到着を待っていた。五人囃子が雅楽を奏でる。婚礼の宴が始まった。  愛は子供たちに混じってその模様を見守っている。そうか。お雛様は結婚式の様子を再現したものだったのか。愛は改めて思い至るのだった。だが、それと同時に急速に尿意をもよおす。無性に便所に行きたくてたまらなくなった。    ここで愛ははたと目を覚ましたーー。  自分は夢を見ていたと、ようやく気が付くのであった。  それから、朝ごはんのあと、基子がこれこれと言いながら仏壇の部屋から小さな木箱を持ってきた。 「おばあちゃんたら、すっかり仏壇の引き出しにしまっていたのを忘れていたのね」  ガラスがはまった小箱の中に、陶器でできた小さなお雛様が納められていた。 「ものが無かった時代にね、おばあちゃんのお母さん。つまりは、愛のひいおばあちゃんからいただいたのよ。これを愛にあげようと思ってーー」  夢に出てきたような豪華な雛人形ではなかったけれど、美しい顔立ちがどことなく、あのお雛様に似ている気がしてならなかった。  それから四日後のお盆休み。ようやく愛の両親が弟の大輔を連れて、夕張の炭坑長屋を訪れた。     ( 了 )  
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加