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最初の事件
太陽が弧を描いて地平線の向こうにその姿を消した時、闇に潜む亡者は動き出す――。
「ウィー、ヒック」
時計の針がまもなく日付を変えようとした時。
王都を包んだ闇は舗装された道さえも飲み込んでいた。その闇に飲み込まれた道をフラフラと、酒に溺れた男が歩いてゆく。
右へ、左へ。時には後ろに転びそうになりながらも進む様子は、まるで不安定な振り子のようであった。
男はランプに灯された小さな火を頼りに、まだまだ遠い我が家へと帰ろうとしている最中であった。
「今日も帰りが遅くなっちまったな―、ヒック」
男は手に持っていたビール瓶を、子供を抱えるように持ち直したことでお辞儀をするかのように前かがみになった。そして先程よりもゆっくりと、転ばないよう慎重に歩き始めた。
「こりゃ、また嫁さんに叱られるわ」
怒られた恐怖を思い出したのか、人知れず男はブルリと体を震わせた。
「それにしても、今日はやけに静かだな。いつもならまだ誰かいるはずなのに」
闇に飲み込まれた道は、まるで嵐の前の静けさのような、その異様な静けさを身にまとっていた。
男は不安になり、急いで我が家へと向かった。だが酔っているためにフラフラと足がおぼつかず、うまくスピードが上がらない。
男は妻に叱られる恐怖とはまた違う恐怖を感じ、おぼつかない足を無理やり動かして走った。
「はぁっ、はぁっ、なんでっ。いつもならすぐに、家に着くのにっ」
走っても、走っても、我が家へ通じる分かれ道が出てこない。それどころか、見えていた我が家は逃げるように男から遠ざかっていく。
男の顔は深海のように青くなり、火によって溶け出した蝋の如く冷や汗をかいていた。もう酔っている場合ではない。
「誰か、誰かいないか! 」
男は叫び、子供のように抱きしめていたビール瓶を投げ捨てた。カラカラと泣く子供。それを気に留めることなく男は走る。
「はぁ、はぁ、あっ!」
男は道に落ちていた何かに躓いて倒れ込んだ。とっさに横を向いたおかげか、顔を怪我することはなかったが腕に傷を負ってしまった。
「一体何が……えっ?」
男が振り向いてみると、そこにいたのは男が投げ捨てた子供だった。
仕返しができて嬉しかったのか、子供はカラカラと笑い、男の足元から去っていく。
男は餌を求める魚のように口を動かして自身の声を出そうとしたが、口の中が急速に乾いてしまって声が出ない。
子供はカラカラと笑いながら、登り坂であるにも関わらず登りながら路地裏へ入っていく。
そして、
カラン、と。
子供は何かにぶつかり、その勢いを止めた。
「なんなんだ……、一体」
男はやっとの思いで声を出すことができたが、驚きのあまりその場から動けない。
カラン。と、何かに子供が拾われた音がした。それと同時に、ドレス姿の女性が履くであろうヒールの音もした。
男はお金持ちのお嬢様がビール瓶を拾ったのだと思った。
「あーあの、お嬢さん? そんなところにいたら危ないですよ? 護衛の人はいるんですか?」
男は路地裏にいるであろう女に声をかけたが、何の返答も無い。代わりにゆっくりと、ヒール特有の高い音が徐々に男のいる道へ近づいてくる。
男は嫌な予感がしてその場から離れようとした。
「痛っ!?」
足元を見ると、倒れた拍子に捻っていたらしく、葡萄のように紫色になってしまった足首がいた。
[これでは動くことができない]
そう思った男は嫌な予感を無理やり消し去り、路地裏から出てくる女を待つことにした。
刺すような高い音が、男のいる道に出てきた。ランプに灯された火を頼りに見ると、背の高い若い女のシルエットが見えた。
「誰だ?」
女は体全体が細く、白い服に紛れてしまうほどの肌をしていて、王都では珍しい若葉のような髪を引き立たせていた。
男はその一瞬で、妻と出会った時のような感情を抱いた。そして無意識に呟いていた。
「綺麗だ」
男の目にはそれほどに、女が美しく見えたのだ。それこそ、我が家で待っている妻を忘れてしまうほどに――。
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