第三章

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2 謝罪  マリオンは時間をかけてコーヒー豆を挽き始めた。  お気に入りの、深めにローストしたマンダリン・ブレンドである。コポコポというサイフォンの音とともに芳しい香りが部屋中に広がる頃、ようやくマリオンはいつもの自分を取り戻していた。淹れたてのコーヒーをカップに注ぐ。  これを飲み終えたら迎えに行こう。  部屋の扉がトントンと控えめにノックされた。レイモンドならそのまま入ってくるだろうと思っていると、もういちど控えめなノックの音がし、小さな声が聞こえた。 「マリオン?」と。  ドアの近くにいなければ聞こえないくらいの声。 「開いています」  応えると、ためらうように開かれたドアの向こうに声の主が憔悴した様子で立っていた。 「あの…、はいってもいいですか?」  自分の部屋だろうに。マリオンは肩をすくめた。 「どうぞ」  レイモンドは、意を決したようにキッチンテーブルに落ち着いているマリオンの前に歩んでくる。だが、何かを口にする前にマリオンがぽろりと 「戻ってきたんですか…」と。  こぼれたつぶやきに、みるみるレイモンドの目が潤んだ。 「…、俺…。ここしか、帰るところがなくて…」  戻ってきてほしくなかったと言う意味ではない。ほっとしたつぶやきだったのに。 「酷いことを言ってごめんなさい。マリオンがいないのが寂しくて…、部屋にいることができなくて…、夜なのに無断で外出しました。ひっ…く。寂しくて、誰かと一緒にいたくて…。でも…、誰かと遊んでたわけじゃなく、ただ、時間をつぶしてただけ。外にいるのに疲れて戻ってきたらマリオンがいて…、ものすごくうれしかったんだけど、っ…」  しゃくりあげながら、途切れ途切れにレイモンドが話す。マリオンにいてほしかったのだと、レイモンドは全身で訴えていた。 「……髪のにおいが、いつもと、違ってた…。それで…、悲しくなって…」  情事を敏感に感じ取ったのだ。 「レイモンド、泣きながら話してもわけがわかりませんよ」 「泣いてなんか…!」  頬に触ったレイモンドはびっくりしたように自分の手を眺めた。  くしゃくしゃにもつれた髪。泥のついたトレーニングウエア。手でこすったために、いっそう汚れてしまった顔。  濡れた瞳は、いつもと違って頼りなさそうにマリオンを見上げている。 「言い訳など聞きたくないのですが…」  レイモンドはくちびるを噛みしめる。 「汚れていますね。トレーニングをしたままでしょう、シャワーを浴びてきなさい。その後で、話をしましょう」 「……はい」 ——冷静なマリオン。どれほど取り乱しても、少しも態度は変わらない。  昨晩のように、頬を張られ、問いつめられる方がよかった。叱られるのは恐いけれど、叱ってもらえないのはもっと辛いとレイモンドは思った。  マリオンがものすごく遠い人に思えて、悲しかった——  マリオンが二杯目のコーヒーを飲んでいると、レイモンドが戻ってきた。 「こちらに来なさい」 「はい」  レイモンドは、ダイニングのイスに腰掛けたマリオンの前で直立不動の姿勢をとった。シャワーを浴びたばかりの顔には、汚れも涙の痕も見えなかった。  いつものように白く透き通った肌、たが…、マリオンは顔をしかめる。 「くちびるが切れている…。きつく張りすぎましたね、痛みますか」  思いも寄らぬ穏やかな問いかけに、レイモンドは一瞬びっくりしたような顔をする。それから頭を振った。 「平気です」 「そうですか。…レイモンド、話をしようと言いましたね。わたしはおまえの教育…」  言いかけるのを、それ以上言わないで! とレイモンドが遮った。 「ごめんなさいっ! マリオン、ごめんなさい」  レイモンドがマリオンの前に両手をつく。 「俺が悪かったです。教育係を辞めるとは言わないでください。……絶対服従だって言われてたのに、言い訳も口答えも許さないって言われてたのに。反抗して、悪口を言って、飛び出した…、ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。  ……もう、絶対に逆らったりしません。どんなことでもします。どんな罰でも受けます。だから、マリオン。どこにも行かないで! 俺の教育係でいてください。お願い。お願いします!」 「……レイモンド、わたしは…」  マリオンは少しも話をさせてもらえなかった。マリオンが教育係をやめると口にしたら、それで終わりだとレイモンドは思っていたのだ。これまでマリオンは、口にしたことを必ず実行してきたから。 「わかっています。マリオンは艦隊に戻りたいって。俺の教育係などやりたくないって。マリオンが教育係でいてくれることが、俺には分不相応だって…。それなのに……、マリオンを独り占めしたいと思ってた…、俺だけを見ていてほしいと思ってた。わがままでした。  ……ごめんなさい。二度とわがままは言いません。もう勝手に抜け出したりしません。言われたことはきちんと守ります。だから。だから…、養成所の試験が終わるまで、俺の教育係でいてください。お願いします!」  レイモンドは必死だった。ごめんなさいとお願いします、を何度も繰り返す。  いま許してもらえないなら、一緒の部屋で暮らすことはもちろん、こんなに近くでマリオンと話すことは二度とできないとレイモンドは思っていたのだ。 「お願いします。お願いします。あと少し、少しだけ、マリオンの時間を俺にください」  手にしたまま冷めてしまったコーヒーをテーブルに置く。  独り占めしたいと思っていた…、レイモンドがそう言った。レイモンドは一途に俺を求めている。  いや、俺を求めているわけではなく、自分だけを見てくれる、愛してくれる保護者がほしいのだとマリオンは思い直した。子どもが親の愛情を独占したいと思うのは当然である。間違ってはいけない。  レイモンドはこれまで、人に面倒をみてもらったことなどない子どもである。俺のような男にでも、捨てられたくないのだろう。俺は、ほんの短い期間、教育係でいるだけの存在なのだ。それ以上の存在にはなれない。  俺は何を期待していたんだ。レイモンドに何を言おうとしていたんだ。  マリオンは甘い考えを捨てた。  レイモンドの顎に手を当てて、上を向かせる。その瞳を捉えて言う。 「もう、絶対に逆らわないと誓えますか」 「はい」  レイモンドは期待を込めた目でマリオンを見つめていた。 「……、いいでしょう」  しばらく考えた後に口にされた言葉に、レイモンドの顔がパッと明るくなった。 「おまえが望むなら、わたしはおまえの教育係でいることにします」 「はいっ、ありがとうございます」  そう言いはしたが、心の中は揺れ動いている。距離をおかなければ指導などできない。教育係を返上して、ただレイモンドを慈しんでやれるなら…。  いや、俺は教育係以上の存在にはなれない。マリオンはレイモンドの顔から手を離すと、ふう〜と大きく息をついて、いつもの顔を取り戻した。 「いつまで足下で這い蹲っているんですか。立ちなさい。わたしに教育係でいてほしいなら言っておくことがあります」  レイモンドはすぐに立ち上がり、直立不動の姿勢をとった。その瞳がうれしそうに輝いている。いつもは完璧なポーカーフェイスなのだが、素直に自分の気持ちを顔に出すこともあるのだとマリオンは思う。 「何度も謝ってくれましたが、わたしは昨晩のおまえの態度を許す気はありません。やってはいけないことをすると、どういうことになるか、きっちり教えるつもりでいます。相応の罰を覚悟しなさい。わかっているでしょうが、同じことを繰り返したら、二度目はありませんよ」  いいですね、と念を押されてレイモンドは上目遣いで「はい」とうなずく。 「それから…。おまえが夜に出歩く元気があるとは知りませんでした。わたしは甘かったようです。今までよりトレーニングの時間を伸ばし、メニューも厳しくします。這ってもどらねばならないくらい鍛えましょう」  きっぱりした言葉に、レイモンドがゴクリと唾を呑み込んだ。  今でもいっぱいいっぱいだった。ものすごく厳しいと思っていた。これ以上となると、ついていけるかどうか…。そんなレイモンドの心中など知らぬふりでマリオンが続ける。 「養成所の選抜試験まで3カ月を切りました、休みはないと思いなさい。14歳のおまえが試験に受かるには、どんなに頑張っても頑張りすぎだということはありません。ついてこられないようなら、その時点で見切りをつけます。泣いてもすがっても、無駄です」  わかりましたか、と聞かれて、レイモンドはすぐには返事ができなかった。 「いやなら、無理にとは言いません」  強気の発言をする。レイモンドを放り出すことなどできるはずがないのに。 「やります。マリオンが指導してくれるなら、やり通します」 「いまの言葉を忘れないでください」  マリオンはにこりと笑うと、その顔からは想像できないような冷徹な声で命じた。 「まずは罰を与えておかないといけない。わたしの膝の上にうつ伏せになりなさい」  チラリと怯えた表情を見せたが、レイモンドはすぐに、教えたとおりに「お願いします」と口にすると、マリオンの膝に乗る。  厳しいお仕置きの始まりだった。  マリオンは納得するまで、手を止めることはなかった。レイモンドが痛みに泣き叫び、声がかすれてきても、マリオンは平然と尻を叩き続けたのである。
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