第一章

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7 その日の夜  ハワードがいつものようにジムの戸締まりを確認してると、グラウンドの隅、用具入れの横に黒い塊が見えたのである。 「ん、あれは何だ? 誰か用具をしまい忘れたのか…」  近づいてみると、小さな身体をさらに縮こませるようにしてレイモンドが膝を抱えて座っていた。  いつからこんなところにいたのだろうか。もう、深夜に近い。雨が上がったとはいえ、地面は濡れている。いくら夏でも風邪を引く。 「どうした。教育係にこっぴどく叱られたのか?」  レイモンドは顔も上げずにただ、首を振る。膝を抱いた様子は、大の男7〜8人を相手に大乱闘をやらかしたようにはとても見えない、子どもっぽい姿だった。  しばらく応えが返るのを待っていたハワードだが、続く沈黙にため息をついてレイモンドの横に腰を下ろした。レイモンドは少し身じろいだだけ。 「グラウンドは禁煙なんだが、この時間だ、許してもらおう」  独り言のようにつぶやいて、ハワードはポケットからタバコを取り出した。  口にくわえて火を付ける。吐き出された煙がふわりとレイモンドを包んだ。 「で、どうしたんだ?」  やさしい問いかけに、今度はレイモンドも顔を上げた。エメラルド・グリーンの瞳が濡れている。  ハワードはどきりとした。なんて哀しそうな色なんだ!   じっと待っていると、ようやく聞き取れるような小さな声で 「……マリオンに、消えろと言われた…」 「そうか。……それなら今夜は、俺の部屋へくるか?」  俯いてしまっていたレイモンドが、頭を振った。いやだという意思表示のようである。 「変な意味じゃないぞ」 「うん、わかってる……」  子どもっぽい返事。続く沈黙にハワードは言葉を探す。 「マリオンのところに戻りたいのか?」  しばらく躊躇した後、蜂蜜色の頭がうなずいた、ようだ。 「マリオンのところが気に入っているのか?」  何気なく口にした言葉に、もう応えはないだろうとハワードが思った頃に、 「あそこには俺の寝る場所がある…」 「プレスクールにいた時も同じだったろう? それでも何度も脱走したと聞いたがな」 「俺は……、マリオンに意味もなく殴られたことはない。いやなことを強要された覚えもない」  昼間、あれほど容赦なく頬を張られていたのに。当然だと思っているようだ。とすると、プレスクールではもっと意味もなく殴られていたというのか? いやなことを強要されたと?  考えているハワードの耳にレイモンドのつぶやきが届いた。 「でも…、俺が邪魔、みたい、なんだ……」 「マリオンが、そう言ったのか?」 「……ん」  レイモンドの教育係になってからのマリオンは、本来のあいつではなかった。ハワードの目から見ると教育係としてやるべきことをやっていないのがよくわかる。 「もしかして……、おまえはマリオンが好きなのか?」 「わからない。……俺は、小さい頃…、マリオンに助けてもらったことがある。マリオンは忘れてるみたいだけど。マリオンだったと思うんだ。自分を盾にして庇ってくれた。広い背中だった。強くて、温かくて、父さんが生きていたらこんな感じなのかなってずっと思ってた…」 「そうか……、それならマリオンのところに戻れ。あいつも心配しているだろう」  レイモンドが力無く首を振る。心配などしていないと言いたいのだろうか? それで、この子は絶望している? 「戻ったら、迷惑そうな顔をされる…」 「それなら。どこか寝られるところに連れて行ってやろう…」  すると、レイモンドがいらいらしたように吐き捨てた。 「そんなことはどうでもいいッ! 寝ようと思えば、どこでも寝られる! 俺は!……これからどうするかを考えてるんだ。もうしばらく、ここにたい。心が決まったら、出て行くから…」  最後はたよりない言葉で締めくくられた。  ハワードはほおっと大きくため息をついた。 「仕方がないな。それなら、気が済むまで考えろ。わしは行くぞ」 「うん……、ありがと」  こんなところで膝を抱えているというのに。  まっすぐ上げた瞳には弱々しさなど露ほども感じられなかった。  コスモ・サンダーの戦闘員たちの何人が同じ台詞を吐けるだろう。  行くところがなくなって、頼る人もいなくなって。自分がなにもできない子どもだったら…。不安で仕方がないはずだ。それなのに、この子は誰にも頼らない、自分のことは自分で、たった独りで考えるという。その心の強さにハワードは脱帽した。  そんなレイモンドがマリオンを慕っているのだ…。できるなら一緒にいたいと思っているのだ。  ハワードはジムの戸締まりを終えたその足で、マリオンの私室を訪ねることにした。  さかのぼること数時間。夕刻のことである。  レイモンドを突き放してから、マリオンは医務室を訪れた。怒りに我を忘れたせいか、久しぶりに思考がクリアーであった。そこで、レイモンドに傷つけられた男たちに口々に文句を言われたのだ。 「俺たちにナイフを向けるなんて、どんな躾をしているんだ」 「おまえが責任を取るのか」  カッコばかりつけて、実力が伴わない戦闘員たち。たかが子どもひとりに何人がかりだったのだ。俺の部隊にいたなら、こいつらはすぐに根を上げるとマリオンは思った。 「なぜ、レイモンドはナイフを抜いたんだろうな。あいつから喧嘩をしかけるなど俺には信じられん。おまえたちは何をしたんだ?」  凍るような視線、部下たちを震え上がらせた低く抑揚のない声でマリオンは問い正す。正直、疑問に思ったのである。  その威圧感に沈黙が場を支配した。それでも中のひとりが 「わけがわからんうちに、飛びかかってきたんだろうがっ」  周りに同意を求める男にマリオンはうさんくさいものを感じた。レイモンドの賢そうな顔を思い浮かべる。 「あいつは、そんなに馬鹿じゃない。……まあいい、すぐにわかることだ。もし…、おまえたちに非があるなら、俺は黙っていない。覚悟しておけ」  くちびるに冷笑をのせて、マリオンは言い放った。  そして、言葉をなくしている男たちを尻目に医務室を後にする。  俺は謝りに来たはずだったのに…。レイモンドを庇っている?  戦闘員といっても、どうしようもない男たちもいる。もしかすると、あいつらの方が煽ったのかもしれない。部屋へ戻る頃には、それが確信に変わっていて、すっかり怒りが消えてしまった。  ナイフを抜いて喧嘩をするなど許されることではないが、理由を聞いてから、きちんと叱るべきだった。大人げなかった。  そういえば…。あいつは同じ間違いを繰り返したことはないと思いつく。何が正しいか、どうすればいいかわからなかったか、悪いと思っていないか…。それとも他の理由が…。  あいつは馬鹿じゃない、それなりの理由があったのだろう。  レイモンドと話をしよう、理解できるかやってみよう。マリオンは初めて真正面からレイモンドと向き合わねばならないと考えていた。  ところが。  レイモンドは部屋にいなかった。夕飯の時間を過ぎても帰ってこない。運ばれた夕食が冷めてしまって…、マリオンはここしばらくの習慣になってしまったアルコールに手を伸ばす。  グラスに琥珀色の液体を注いでソファに座った。  目が何度も何度も時計を確かめる。  あいつはどこへ行ったのだ。  まさか! 「俺の目の前から消えうせろ。二度と顔を見せるな!」  怒りにまかせて怒鳴ったけれど。本当にレイモンドは消えてしまったのか。戻ってくるつもりはないのだろうか。  幼さが残る美しい容貌が頭に浮かぶ。気がつくと深いエメラルド・グリーンの瞳で自分を見つめていた…。  馬鹿だな、俺は。プレスクールで何度も脱走したと聞かされていただろう。出て行きたくなっただけだ。  しかし。  この1カ月半、手は焼かされたが、驚くほど素直だった。言うことを聞いてくれた。  だからと言って…! あいつはもともと誰かになつくなどということのない子なのだ。自立心が強くて、自分でちゃんと立っている。まだ13歳だというのに。  消えてくれればありがたいと思っていたのに。  いまは、無性にレイモンドのことが気にかかった。  こんな風に待っていても、もう帰ってくることはないと気がついて、マリオンは自嘲の笑みを浮かべくちもとを歪ませた。
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