胡散くさい男

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胡散くさい男

 ある日、私は同棲を解消されるという手痛い失恋をした。そして胸にぽっかり穴が開いてしまった。そんなとき、不思議な男に出会った。  男は品のいいスーツをまとい、オメガの時計を身につけ洗練された仕草で汗を拭いていた。垢ぬけない私はとてもじゃないが近寄りがたかった。  だが、男は交差点で対角線上にいた私にまっすぐ近付いてきて、 「急に声をかけてすいません。貴女は今より素敵な自分になりたくないですか?」  と斜め上のことを言ってきた。たしかに私はイケてない。化粧っけのない顔に、まとっているのは体のラインが出ない服とペタンコの靴。そんなにも野暮ったさが目立っていたのだろうか、不安がよぎる。 「貴女はまだ自分の魅力に気付いていないだけです。私は女性を淑女に導くのが仕事でして」  男は、心地よい涼やかなバリトンで言った。  そう言われても、そんなおとぎ話のようなことがあるはずないと心の中でサイレンが鳴る。すると男はスーツの左ポケットからケースを取り出し、名刺を私に手渡した。  そこには『淑女養成コーディネーター (かつら)(つかさ)』と記載されていた。  怪しい、新手の詐欺か……。私の頭の中は疑惑でいっぱいになった。 「僕のことはヒギンズ教授と呼んで下さい」  思いっ切り日本人じゃないですか~という私のツッコミをよそに、 「僕のことを疑っているでしょう、無理もないです。怪しいですよね」  とヒギンズ教授は穏やかな顔で淡々と述べる。 「それはもう!」  自信をもって答えられる。と同時に、昔観た『マイ・フェア・レディー』のストーリーが思い出された。  花売り娘と言語学者の恋。幼い頃、観て憧れたものだ。 「もし、少しでも自分を変えたくなったら、僕に連絡をください」  私はもらった名刺をなぜか捨てることが出来ずに、一人暮らしの自宅に向かった。変わるのが怖かった。しかし変わりたい気持ちもあったのだ。
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