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訃報
それは、あまりにも突然の知らせだった――。
2007年2月18日、極寒の中、第一回目・東京マラソンが開催された。
その翌日は、春を思わせるかのような陽気で、穏やかな晴天だった。
16時半頃、部屋の電話が鳴ったが、それは程なく切れた――虫の知らせのように・・
その晩、再び電話が鳴った――嫌な予感がした。
出たのは妻だった。その瞬間、妻は、呆然とし、私の目をギッと見て、言った。
「お父さん・・亡くなったって・・・」
私は、目をギョッとさせ、受話器をもぎ取ると、母の声がした。
「お父さん・・亡くなったから・・」
その声は意外と冷静だった――それは何故か私の琴線に触れた。
「馬鹿なッ!何やってんだ!」
自分の放蕩ぶりを棚に上げ、母に当った。
2007年2月19日16時20分、父、永眠――享年・64歳。
翌日・早朝。
前日の晴天から打って変わって、鉛色の空から容赦なく冷たい雨が降りしきっていた。
妻と3歳の息子を車に乗せ、実家に向かった。
それにしても、64歳という年齢は亡くなるには、いささか早いように思えた。
詳しい経緯は不明だったが、突如、吐血し、そのまま意識不明となり、戻らなかったという・・・まさしく突然死――
だが、予兆があったとかといえば、なくもなかったのだ。
“父の様子を見に来て欲しい”
そう、姉から電話が掛かってきたのは、数日前のことだった。
聞けば、年が明けてから、またもや、酒浸りの生活に入ったという。
実家に共に暮らしていた時代、その修羅場を幾度となく見てきた私は、”またかぁ”という嫌気と、年末・年始以来の仕事の繁忙さの疲労も手伝い、辛辣な言葉を姉に返し、姉は激昂した。
そして、そのまま、電話越しに喧嘩別れしたのだった。
まるで、魔術に掛かったかのように、その日、実家に向かう道のりが遠く感じられた。
いや、実は、自らそうしむけたとも言えなくもなかった。
例えば、喪服を新調しようと、慣れない街を当てもなく彷徨い、時間を浪費した。
思うに、心のどこかで父の死を受け入れられない自分がいたのだった。
そして、もう二度と目を覚まさない父の姿を確認せねばならない事が、ひどく怖い事のように思えたのだった。
”親の死に目に会えなかった”人はよくそう言うが、私に、そんな後悔は不思議と沸いてこなかった。
ようやく着いたのは、15時を過ぎた頃。
玄関に喪中のとあり、これが現実であることに改めた気付かされた。
部屋に入ると、そこには既に親戚筋が数人おり、私は、丁重に挨拶をした。
やがて母に導かれ、奥の畳の部屋に入ると、そこに敷かれた布団の上で父は永眠(ねて)いた。
顔には白い布があり、母がそれをそっと取ると、目を閉じた父の顔があった。
「遅くなりました・・」
それだけを絞り出すと、自然と涙が溢れてきた。初めて、父の死を実感した瞬間だった。
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