【短編】紫陽花を挟む

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 香歩さんはときどき家で仕事をする。  金持ちの奥さま向けの雑誌に、ガーデニングや季節の植物についての短いエッセイを書くのだ。世の中にはそんな素敵な仕事があるんだと驚いた。  〈春の魔法〉が気に入った香歩さんは、あたしに花の名前を尋ねるようになった。  これは?と、香歩さんが開いた季節の花図鑑を指差す。ネモフィラという、青くて小さなお星様みたいな花。 「お空の金平糖」  そう答えると、すっごく素敵、と嬉しそうに笑う。  じゃあこっちは? こんどは派手な濃いピンク色のシャクナゲという花。 「ハートの女王様」  情熱的ね!と香歩さんはかわいらしく両手を合わせた。  じゃあこれは? 人差し指の先には、雪がこぼれ落ちるような白い花。ユキヤナギと名前が書いてある。 「ユキヤナギはユキヤナギのままで素敵だよ」  そう言うと、そっかそうだね、と香歩さんは笑った。  ずっと一生、香歩さんとふたりで花の名前ばかり考えていられたらいいのに。  香歩さんの暮らす世界は空の上の方にあって、あたしはずっと足もとがふわふわしている。  日曜日の夜、はじめて香歩さんの旦那さんから電話があった。むだなおしゃべりのない、短い、事務的な受け答え。  そう言えば、旦那さんがこの家に帰ってくる予定も、香歩さんが旦那さんに会いにいく予定もないみたい。香歩さんもめったに旦那さんの話をしなかった。  熟年の夫婦ってこんなものなのかな。そう思ったとき、ぽっと頭の中に「不倫」の二文字が浮かんだ。  関西に単身赴任というのも、実は嘘だったりする? 実は旦那さんは他に家庭があって、香歩さんもそれを知っていて――  わかんない。ぜんぶあたしの妄想。香歩さん本人にそんなこと聞けないし。でも男の人ってみんな飽きっぽいから。  もし香歩さんみたいに優しくてきれいな奥さんが不幸なら、神様はちょっと残酷だと思う。  お庭みたいに広いベランダには植木鉢がたくさん並んでいて、香歩さんは毎日丁寧に手入れをする。腰を下ろして、チョキンチョキンとしおれた花を切り落としていく。  その背中に寄り掛かるように抱きついた。 「どうしたの、ララちゃん」  香歩さんの背中がクスクスふるえる。  あたしがここに来るまで、香歩さんは広いマンションの中にひとりぼっちでいたのかな。  いっぱいのお花に囲まれて眠っている、塔の上のお姫様みたいだって思った。 「ララちゃんがくっついてると、あったかいな」  そんなふうに言われて、なんだかちょっと泣きそうになった。  香歩さんをあっためてあげたい。香歩さんを幸せにしてあげたい。  あたしが香歩さんの旦那さんだったらよかったのに。  ときどき香歩さんと一緒に買い物に行く。すれ違う人が、あたしの腕の傷に驚いて振り返る。  今日の昼間、あたしはまた新しい傷を作った。だけど香歩さんは気にしない。痛いの痛いのとんでけって呪文を唱えながら、傷薬を塗ってくれる。それなのにあたしは、懲りずになんども傷を作った。    香歩さんは怒らない。いつも優しい呪文をかけてくれる。  駅前の雑貨屋さんで、泡の入浴剤を香歩さんと選んだ。その日の夜、一緒に泡風呂に入ろうって香歩さんに誘われた。  明るい場所で裸になるのはちょっと恥ずかしい。ぱっと服を脱ぎ捨てて、もこもこの泡が立ったお風呂に飛び込んだ。作ったばかりの腕の傷がピリッと痛い。  裸になった香歩さんも、あたしの前にからだを沈めた。  雲の中みたい、って香歩さんがはしゃぐ。泡を両手にとって、あたしの頭の上に乗せた。生真面目な顔をして、もうひとつの泡を。 「かわいい。泡の国のうさぎちゃんみたい」  そう言って、いつものようにあたしを褒める。  なんだか急に、いろんなことをぶちまけたくなった。 「香歩さんあたしね、フーゾクで働いてたんだよ」  そう言うと、香歩さんは視線を落として泡をすくった。 「辛かった?」  香歩さんが心配そうな声を出す。 「ううん、あんまり。いつも自分とカラダが、バラバラなんだ。嫌なのも痛いのもカラダだけで、あたしはちょっと遠くからそれを見てる。だから別に平気だった」  香歩さんがあたしの肩に泡を滑らす。 「でもね、カラダの中に居場所がないから、ずっと気持ちがふわふわしてる。自分がどこにいるのかときどきわかんなくなって」  お湯に馴染んだ傷は、もう痛くない。 「不安が限界をこえると、切っちゃうんだ。そしたらちゃんと痛くて安心するんだけど、でもやっぱり悲しくなる」  うえぇ、とかわいくない声が口から飛び出した。泣き出したあたしの背中を香歩さんが抱き寄せる。 「よしよし」  香歩さんが背中を撫でてくれる。 「だいじょぶ、だいじょぶ」  香歩さんの声は、優しい魔法だ。ぼろぼろのあたしに魔法をかけて、治そうとしてくれる。 「ララちゃんはえらい。よく頑張ったね」   ぜんぜん偉くないよ。フーゾクやるなんて、馬鹿で貧乏で取り柄のない子がやる仕事で。  だから男の人はいつもあたしをどうでもよく扱った。  こんなふうに大事にされたことがないから。嬉しくて、幸せで、足もとがふわふわして。  空から落っこちそうで不安になる。
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