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‘好き’に気付いたんだ
あと少しで、今年最後の陽が沈む。
次に太陽を見るのは、新しい年を迎えてから。
この節目をたまたま会った陸と眺めているという事実に、私は少し本気で運命を感じ始めていた。
いま他の誰かに告白をされても、きっと断ると思う。
付き合ってゆくうちに好きになる恋愛もアリという持論は変わらない。でもいまは、無差別に付き合ってみる気にはなれない。
率直に言うならば、陸以外と付き合う心持ちになれない。
私はこの何十分かの間に、陸を好きになった。
というのは嘘じゃないと思うけど、なんだか違和感がある。
本当はずっと前から燻っていたのだと、埋没していた感情が芽吹いてようやく可視化したような、そんな感覚。
そうか、‘好き’に気付いたんだ。
私にとって小5から中3までの5年間をともに過ごしてきた陸は、誰とでも分け隔てなく接して常に周囲の人を気にかけている、一人で突っ走ってメンバーを統制する翔馬や、ただ騒がしいスクールカーストの上位者とは違うタイプのリーダー的存在。
その人柄が成すものか、鵠沼海岸学院の陸上競技部は湘南海岸学院のそれよりのびのびしていて、穏やかな空気が漂っている。
そんな陸だから、多くの人にとって接しやすく、私も彼と接しているときはとても気楽だった。それを恋だとは思わなかったし、きっと私が陸に抱く感情は男女共通だと思っていた。
こうして普段から何気ない接触を重ねるうちに気持ちが募り、潜伏していた恋の病のウイルスがいま、発症したのだ。
でも、私には何もない。陸上選手として脚が速くもなく、性格だってありふれていて、まどかちゃんみたいにクールでカッコ良くもなく、つぐみちゃんのような朗らかさもない。
わかってる。自分が特別で誰かに愛されるような人間じゃないってこと。夢のような女子でもないってこと。でも陸は優しいから、特技も人徳もない私にも、他者と均しく慈愛をくれる。
こうして至らぬ自分を掘り下げて負のスパイラルに陥ると、退廃的になってどんどん状況が悪くなる。恋も日常生活も。
ならばせめて現状維持すべき、というのも違う。
ダメだとわかっている自分を、ダメなままにしておくなんてクソだ。クソでもいいと思ったら、甘んじなければ得られたかもしれない幸せは諦めるしかない。
ありのままの自分ではいけないけど、変に気取らず素直な自分のままブラッシュアップしたい。
タイミングを合わせたわけではないけれど、ふたり同時にプルタブを開け、陸は「じゃあ、有り難くいただくわ」と恐縮しながら一口目をちびっと飲んだ。もしかして女子に奢られるのは男のプライドに憚られた?
「今年も一年が終わるね。陸は進路とか、将来やりたいことは決まってるの?」
太陽が半島に身を潜め始めると、球体の形がハッキリ見えるようになった。それがサザンCにすっぽり収まって、モニュメントに嵌め込まれた『SOUTHERN BEACH CHIGASAKI』の文字が光に反射して浮かび上がっている。
「そうだな、ちょっとした願望はある」
「へぇ、どんな願望?」
プロの陸上選手になって金メダルを取る、かな? と思ったら、容易には想像し難い答えが返ってきた。
「ちっちゃいときの話な。俺の母親と近所の子の母親で小銭の清算をするとき、近所の子の母親はいつも綺麗な小銭を渡しててさ。それを見て初めてキラキラした十円玉があるって知ったんだ。うちでは茶色いのしか見たことなかったから」
「あぁ、初めて綺麗な十円玉を見たときは、私もこれ欲しいって思った」
きっとその人は百円とか他の硬貨も綺麗なのを揃えてたんだろうけど、十円硬貨は目立つから印象に残ってるんだろうな。
「俺もそう思った。それでだ、時が過ぎてそれなりに成長して、なんでアイツの母親は綺麗な小銭をたくさん持ってるんだ? って、ふと思ったわけよ。流通してる硬貨はくすんだヤツのほうが圧倒的に多いのに」
「間違いない」
私は相槌を打った。
「それで、よくよく考えてみたら、そいつの家はそこそこ裕福なんだ。玄関にシャンデリアがぶら下がってて、庭に灯籠が立ってて、松とか椿とか、色んな木が生えてる。そんな家庭だから、財布だって自分で使う金と誰かと清算するためのものをそれぞれ持ってて、ピン札とか綺麗な小銭を選別して入れておくくらいの余裕があるんじゃないかって推理した」
「銀行で両替したとかは?」
「あるかもしんないけど、そこまでマメ人はやっぱり金が貯まりやすい体質なんだと思う」
「ふむふむ確かに」
「それで俺は、富豪にまではならなくてもいいけど、あのくらいは稼げるようになりたいって思ったんだ。とりあえずそれが第一目標」
「なんともリアルな目標だね。でも、綺麗なお金を渡せるっていいよね」
「だろ? 沙希は何かあるのか。目標とかやりたいこと」
「ないね。陸は他にある?」
本当は陸と付き合って青春したい。それが私の目標というか夢。けどいまはそんなこと言えない。
「わからん。でも、これは逆にチャンスだ」
「チャンス?」
「ああ。だってさ、やりたいことが何もないなら、色んな世界を見て回れるだろ? やりたいことが決まってたらそれに打ち込んで、視野が狭くなる気がする。速く走れるようになりたくてひたすら走り込んでたころの俺がそうだったから」
「経験者は語る、だね」
「でもさ、やりたいことに打ち込んで、尚且つ視野が広い人もいるんじゃない?」
「ははっ、そういうヤツのことを、最強っていうんだよ」
「最強……うん、最強ね。これは私が目標を決めて視野を広げていけば、フルーツの香りがするワールドワイドでギャラクシーなヘブンリーガールになるね」
「ギャラクシーで天国かどうかは知らんけど、まあ、頑張れ」
「うん! がんばる!」
ビュウウンと、砂を巻き上げる北風が吹いた。松林に隠れて見えないけど、東からはもう、江ノ島の灯台が砂浜を照らしている。
サイダーを一口飲む。陸は会話中もちびちびオレンジジュースを飲んでいて、くるんくるんと缶を回して飲み切った。
「そういえば私たち、ふたり揃って冷たい飲み物だね」
「だな。なんかからだが乾いてて。オレンジジュース、染み渡ったわ」
「ふふふ、キミもオレンジジュースの魅力に気付いたかね」
「オレンジジュースはずっと好きだけど、言わんとしてることはわかった」
「なら話は早い。種差陸、キミもフルーツの香りがする夢のようなヒューマンにならないかい?」
「ならん」
「残念!」
でもいいんだ。陸の落ち着いた大人みたいな匂いが、私は好きだ。
ふと半島のほうを見たら、ちょうど陽が沈むところだった。
「ほら見て!」
私は夕陽を指差した。そちらを向いた陸は少し眩しそうに目を細めた。
「地球がっ、地球が回って陽が沈んでくように見える!」
「間違っちゃいないけどなんだかバカっぽいな。せっかく綺麗な夕暮れなのに」
「ああ、沈む、沈む、沈んだあ!」
「沈んだな」
「沈んだな、じゃなくて、なんかもっとないの? 綺麗だな、沙希のほうがもっと綺麗だけど、とか」
「綺麗な夕暮れって、さっき言ったぞ。聞いてなかったのか?」
「聞いてた聞いてた! でも言葉足らずだから付け足す言葉を教えてあげた」
「蛇足だな。褒め言葉を無理強いするとかどうかしてるわ」
「人は褒めたほうが素直に育つよ」
両者右手に缶をぶら下げて、家のあるほうへ歩き始めた。やはり南東では江ノ島の灯台がぐるん、ぐるんと、海、鎌倉、藤沢、茅ヶ崎の街を瞬間的に照らしている。光の速さハンパない。右手に海、左手には背の高いネット越しの松林。
部活の練習でも使うこのサイクリングロードは、休日の朝練で利用している中島スポーツ公園の近くで、今度新しく競技場ができる柳島から陸たちの通う学校がある鵠沼海岸までを結び、そこから国道134号線の歩道に合流して江ノ島まで伸びている。全長約10キロ。
この地点から私たちの家の周りまでは約2キロ。あと20分くらいは陸とふたりきりでお話しできる。
「そうかもな。俺は怒られてばっかであんま褒められなかったからか、ひねくれてる」
「ひねくれてるけど、グレなかったね。普通はグレるのに」
「グレたら負けだと思ったからな。俺みたいに怒られてばっかのヤツらは結構グレちまって、人に手を出したり、中には補導されたヤツもいる。悪に染まるのはラクかもしんないけど、代償が大き過ぎる。でもそれを返せなかったら、いよいよ人間として終わっちまう。人生プラマイゼロっていうからな。死ぬときにはいいことも悪いことも全部フラットだ。じゃなきゃ地獄行きさ」
「ワイルドだね」
「だろ?」
「うんうん。そういえば、コンビニに顔なじみのレジのおばちゃんがいるんだけど、その人も人生はプラマイゼロ的なこと言ってた。若いころギロッポンで遊び過ぎて男をはべらせたツケがいまになって回ってきたって」
「先人は語るか。いまが楽しけりゃそれでいいともいうけど、いまも未来も楽しくするために、悪いことはしないほうがいいのかもな」
「名言だね。陸、やっぱ頭の回転いいわ」
「だろ?」
「うん。陸、褒めるトコたくさんあるじゃん」
「そ、そうか?」
「そうだよ。長距離走だって頑張って速くなったし。私なんか中学と変わらず部活サボりまくりだもん」
「まぁ、いいんじゃねえの? 本当に好きなことから逃げなければ」
「陸! どうした陸! きょうの陸、すごいイケメンで私は心底驚いておるぞ!」
いつになく絶好調な陸の言霊を全身で浴びてアイムベリベリハッピーだ!
「おう、俺も自分で驚いてる。沙希といっしょにいると、調子いいんだ」
え? それって、どういうこと?
「そっか。……そう言ってもらえると、うれしいよ」
ハイテンションを維持して誤魔化したかったけど、バカ正直な私は頭の中がこんがらがって、結局素直な気持ちしか吐き出せなかった。
「お、おう、そうか」
陸の顔を見れなくて、アスファルトに天の川のようにびっしり埋め込まれた水色と白の粒々を見る。
「う、うん! そうだそうだ!」
「イテッ!」
と声を発するとともに陸が急に立ち止まった。
「どうした?」
「烏帽子岩で股間打った」
サイクリングロードには、ところどころ烏帽子岩を模したコンクリート製のポールが設置されている。高さはちょうど成人の股間くらい。先端が尖った烏帽子の形状だけにクリティカルヒットするのだ。
「わお、それは災難だね。その気持ちだけはわかってあげられなくて残念だ」
「ああいてぇ、マジいてぇ……」
さっきまでの調子はどこへやら。いまはただ自爆して呻くおバカな少年でしかない。
陸が蹲ってしばらく動けそうになく、私は彼の横で空を仰いだ。
茜空がベージュに、やがて藍色に染まり始め、見上げる星の数が増えてきた。この星空とともに、新たな年を迎えるだろう。
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