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小瓶の中に彼女はいた。
僕らは決して交わらない運命だった。
ヒグラシの声が響く残暑厳しい中、僕は母の実家に一人来ていた。足の悪い祖母の様子を見るために、夏と冬は家族の誰かが来ることになっている。今年の夏は大学生になった僕が行くことになった。
散歩がてらに海岸を歩いていると、高さ15センチほどの小瓶が落ちているのを見つけた。
なんだろう、と拾い上げると、中に身長10センチにも満たない、美しい女の子がいた。
思わず「うわっ」と声を上げる。手が滑って小瓶を落としそうになり、慌てて持ち直した。
白のシンプルなワンピースを着た彼女は、その振動に驚いたのか、びくりと体を震わせ、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
瓶の底で丸まるように眠っていた彼女は猫のように伸びをする。
背中の半分ほどまである茶髪が、夕日に透けて金色に光っていた。
大きな欠伸を一つした彼女はようやく僕に気づいて飛び上がる。
「ごめん、怖がらないで、何もしないから」
僕の声は聞こえていないのか、瓶の壁に張り付き、警戒したようにこちらを睨む。
自分より何倍も大きい人間が目の前にいたら誰でもびっくりするだろう。
僕はこれ以上彼女を驚かせないよう、そっと小瓶を持ったまま家へと向かった。
家についてもしばらく警戒を解かなかった彼女は、僕が小瓶を他の人に見つからないよう窓際に置きカーテンの影に隠したところで、ようやく危害を加えないことを理解したらしい。
恐々とこちらを伺うように瓶の中から僕を見つめている。
「どうしたの?」
と問うと、彼女は口をぱくぱくと動かして必死に何かを伝えようとしている。
しかし、こちらに声は届かない。
息ができないのかと思い瓶の蓋を開けようとしたが、固くて全く開く気配がない。
不思議なことに、密封された瓶の中でも彼女は普通に過ごしていた。
彼女は小瓶の中から窓の外をよく見つめていた。
その視線は空に憧れる小鳥のようで、僕はそんな彼女に見惚れていた。
あの透き通った瞳には、この世界がどんな風に映っているのだろう。
数日経つと、この環境にも慣れたのか少しずつ笑顔を見せるようになった。
僕の声が届いているのかはわからないが、僕はいろんなことを彼女に話すようになった。
大学のことや祖母のこと、家族のことやこの田舎のこと。
話している間、彼女は三角座りをして微笑んでこちらを見上げていた。
そんな彼女は、決まって星空の広がる深い夜に涙を流していた。
彼女が涙する度に、少しずつ彼女の足元に水溜りができていった。
祈りを捧げるように手を組んで俯き、瞳から小さな雫を零す様を、僕は何もできずにただ見つめていた。
いつしか彼女の涙は、彼女の足首の高さまで溜まるほどになっていた。
それは突然だった。
台風が直撃するから早めに避難しろ、という放送が町中に流れているある日のこと。
僕は祖母を一足早く避難所に連れて行き、一度家に戻って必要な荷物をまとめていた。
彼女も連れて行かなければ、と思うが、田舎とはいえ人が集まる避難所で隠し切るのは難しそうだ。
風はどんどん強くなり、窓をガタガタと揺らしている。窓に叩きつける雨の音が僕を急かす。
荷物をまとめ、小瓶を隠せる袋をどうにか押し入れから探し出した。
「君も行こう、ここにいたら危険だ」
僕はそう言って小瓶を持ち上げた。ちゃぷ、と音がする。
僕と目が合った彼女は必死に首を横に振っている。行っちゃいけない、と言うように。
「どうして?ここは危ない、逃げないと」
彼女は頑なに首を振り続ける。瞳からはぽたぽたと涙がこぼれ落ちている。
彼女の声は聞こえない。必死にこちらに向かって何かを訴えているが、僕には届かない。
「行かないと」
小瓶を袋に入れようとしたその時。
つるりと手が滑った。
小瓶が床に落ち、なぜだろうか、瓶の蓋が開いた。
その瞬間、濁流のように瓶の中から水が押し寄せてきた。
足のつかない河で溺れたように僕の体は水流に飲まれる。
必死に目を開けると、彼女が僕の手を握っていた。
「どうして」
僕の声は届かない。
彼女は僕に抱きつき、耳元で囁いた。
「ありがとう、ごめんね、ごめんね…」
なぜ彼女の声は水の中でも聞こえるのだろう。鈴のような凛とした声を聞きながら目を閉じると、彼女が離れていく気配がする。
僕はそのまま濁流に飲み込まれた。
気づくと僕は小瓶の中にいた。
台風は過ぎ去ったのか、瓶の中から見える空は高く、青かった。
小瓶を誰かが拾い上げる。それはよく見知った彼女だった。
彼女は涙を零しながら、小瓶を海へと流す。
瓶の中の者と外の者が愛し惹かれ合うことで、立場が入れ替わる。そして、同じ相手とは決して愛し合えない。
そんな呪いのかけられた小瓶。
彼らは決して交わらない。
これは、交わることのできない、悲しい恋を生む小瓶の物語。
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