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彼は厚美の見舞い中に一度だけ、「もう会わない方がいいか」と尋ねたことがあった。
すると彼女は目を見開いて、「どうして」と言った。
彼女は心の底から、これからも文彦と一緒にいたいと思っていたし、一度だって彼を恨んだことがなかった。
彼女は何度も、「飛び降りたのは、決してあなたのせいじゃない」と訴えた。
それは彼女の正真正銘の本心だった。
それでも、じゃあ何故飛び降りたのかと問われると、彼女は言葉に詰まって、「分からない」と言った。
彼女自身も、なぜ飛び降りたのか分からない様子だった。
死にたいと思ったことは一度もなかったのに、気が付いたら、そうしなければならないという思考に取り憑かれてしまっていたのだ、と。
文彦はその説明に得心することはなかったけれど、理解したつもりで接するしかなかった。
鬱病を身近に感じたことがなかった彼は、それらの言い分がどうしても理解出来なかった。
それでも厚美は大切な存在だったし、彼女が少しでも笑顔で過ごせるように、文彦は出来る限り努力した。
厚美は三ヶ月間休職し、その後、復帰することのないまま会社を退職した。
彼女は療養期間を、「とても長いお休み」と表現した。
彼女の鬱病がすぐには改善されそうにない厄介なものであるということは、彼女自身が一番理解しているようだった。
文彦は、厚美を笑顔にするために、よくワッフルを作って食べさせた。
厚美は文彦の作るワッフルが昔から大好きだった。
彼のワッフルを頬張る時だけは、どれだけ泣いていても笑顔になった。
彼女の涙でくしゃくしゃになった顔が、笑顔でくしゃくしゃになってゆく様子を見ると、文彦も幸せな心地になった。
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