明日晴れなくても(16)

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十六・すべてが終わるとき  私が「ただいま」と言ったか言わなかったかのタイミングで、お母さんが玄関まですっ飛んできた。そして玄関先で私の肩や背中に葬祭場でもらったお清めの塩をパラパラと投げかけた。 「これで入っても良いわよ」  お母さんからの入室許可をもらった私はそのまま部屋に入るとすぐに舞依に電話した。  舞依はワンコール鳴り終わる前に電話に出た。 「ゆかり、大丈夫?」 「うん、大丈夫。ごめんね、みんなに心配かけさせちゃったみたいで」 「ゆかりったら、急に倒れちゃうんだもの。びっくりして涙が引っ込んじゃったよ」  本来なら私が舞依を元気づけなければいけないのに逆に心配させてしまったことに、より一層自責の念に駆られた。 「本当にごめんね」  私は電話口で何度も謝った。 「ううん。いいよ。ゆかりが元気になったってわかったから、安心した」  私は生存確認の連絡をしたくて舞依に電話したわけではなかった。 「ねえ、舞依。愛依ちゃんのことなんだけど、知ってたら教えて」  私が見た愛依の記憶について覚えている限りを漏らさずに一つ一つ丁寧に話した。舞依は途中で口を挟むことはせずに最後まで黙って聞いていた。  すべてを話し終えた後で、この話が真実なのかどうか尋ねた。 「……うん。私も小さかったから全部覚えているわけじゃないけど、その話は本当だよ」  夢で見た出来事と愛依の記憶が一致したということは、やっぱり私は愛依の記憶を感じ取っていたのか。 「倉庫のことは私が直に見たわけじゃなくって、施設の人達が話しているのを盗み聞きしただけだからどこまで本当のことかはわからないけど、愛依が見つかった倉庫の前にだいすけ先生の車があって、だいすけ先生は倉庫からずっと離れた場所で発見されたみたい。一緒にいた人達のことはよくわからない」  私はどうしても確かめたくて、自分が夢で見たもう一つの出来事について話した。 「私、車の中で殺される夢を見たの。最初は自分が殺されたんだと思っていたんだけど、よく考えてみたらあれは愛依ちゃんだったのかも」 「それ、いつ見たの?」  舞依の声色が変わった。その声からは緊張感が伝わってきた。 「愛依ちゃんが亡くなった日の夜」 「犯人の顔覚えてる?」  強い語気で舞依が尋ねた。  私は頭の中でうっすらと犯人の顔を思い出しながら、「ううん」と答えた。  そう、と舞依の気落ちした声が耳許でした。  舞依が犯人を知ってしまったら間違いなく暴走してしまう。今度は舞依が殺人犯になりかねない。それだけは絶対に避けなくてはいけない。 「……そうだよ。愛依は車の中で殺されていた」 「車の持ち主はわかってるの?」 「ううん。その車は盗難車で、車内からも犯人に繋がる指紋や遺留品は見つかっていないって、警察の人が言ってた」  舞依の話によるとその盗難車は河川敷の橋のたもとで乗り捨てられていた。車内やその周辺では凶器と思われる刃物は見つかっておらず、おそらく近くの川へ投げ捨てたのではないかとのことだった。 「犯人が捕まったらすぐに私達に連絡してくれるって言ってた。だから私達は待っているしかないのかも」  悔しそうな舞依の声に私はすぐに言葉を返せず、うん、とうなずくくらいしかできなかった。  しばらく二人の間に重苦しい空気が流れた。 「実はさ」  沈黙を破ったのは舞依だった。 「私と愛依って本当の姉妹じゃないんだ」 「えっ?」  私は紀子が入院していた病院で舞依の父が告白したときのことを思い出しながら、いかにも初めて聞かされたという風に大袈裟に驚いて見せた。 「もちろん愛依も私が本当の妹じゃないって事も知ってる」 「舞依、そんな話して……」 「大丈夫。今自分の部屋にいるから」  舞依は気にする素振りも見せずに言葉を続けた。 「だって、二人とも共通の記憶って施設に入ってからのしかないんだもの。それ以前の記憶はお互いにバラバラだしさ。いくら小さかったと言ったって一緒にいれば何かしら覚えてるもんじゃない」  自分が五歳だった頃の記憶を思い出してみた。確かに家に美樹はいて、一緒におやつを食べたり同じ幼稚園バスに乗って幼稚園に通っていたときの記憶が薄ぼんやりと蘇った。 「でも、そんじょそこらの姉妹なんかよりもずっと仲良しだったし、お互いに本当の姉妹だと思っていたから気にしてなかったけど」  私は黙ってうなずいた。美樹も小さい時は「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と言ってよく私になついていた。美樹の態度が急変したのは、小学校に入って彼女が私よりも通知表が良かったのがきっかけだった。 「今のお父さんとお母さんが本当の両親でないこともわかってる。二人は私達に内緒にしてるつもりみたいだけど、いくら私達が小さかったからって七歳なら記憶もはっきりしてるよ。最初の日、施設にお父さんとお母さんが来て「迎えに来たよ」って言ったの。こっちは両親の顔なんて全く覚えてもいなかったのに、だよ。でも私も愛依も何も言わなかった。『あぁ、今日からこの人達と一緒に暮らすんだな』って子供心にぼんやりと思った」  舞依達はそこまで気付いていたのか。 「私達を捨てた生みの親よりも、一生懸命大切に育ててくれた今の両親の方を本当の両親だと心から思ってる。だから血が繋がっているかどうかなんてどうでも良いことなの」  そう言い切る舞依の言葉を自分の身に置き換えてみた。もし今のお父さんとお母さんが実の両親でなかったとしたら、私は今まで通りに接することができるかどうか自信がなかった。今の両親に感謝しつつも、本当の親を知りたいと少なからず思うに違いなかった。  そして美樹が本当の妹でなかったとしたら……こちらはあまりショッキングな事実ではないのかも知れない。あまりの出来の違いに自分でも時々本当の姉妹ではないんじゃないかと疑ってしまうことがある。  舞依との電話の後、ベッドに潜ってからもしばらく目を閉じることができなかった。  目を閉じたら愛依の記憶がまざまざと再生してしまうかもしれない。それになぜか身体もいつものように睡魔に襲われることもなく、むしろ昼間よりも目が冴えていた。  寝なければという焦りや不安もなかった。  三度の飯よりも睡眠が大好きなはずの私が全く眠りたいと思わない。それに疲労感もないなんて、コーヒーを飲み過ぎたか怪しい薬でも飲んだのだろうかと今日一日の行動を思い返してみたが思い当たる節は一切なかった。  これだけ元気なら今からでも警察へ行って愛依のことについて真相を確かめるべきか。  寝転んだままスマホのアドレス帳から宇都宮の連絡先を探した。  私が痴漢に遭って彼に助けてもらったときに名刺のようなものを渡されたような気がしたが、いちいち名刺管理するほど几帳面ではない性格が災いしてかアドレス帳に登録した形跡は見当たらなかった。当然名刺もどこへ行ったのか全く憶えていなかった。  学校で殺人事件が起きていたときは彼が頻繁に学校へ来ていたからわざわざ電話やメールで連絡を取らなくてもそのうち会えるさとのんびり構えていた。  自分のずぼらな性格は短所でもあり長所でもあると自己分析していたが、この時ばかりはこの短所を呪った。  これから自力で警察まで行って直接話をしようかと思った私をもう一人の私が被せるように全面拒否した。  仮にアドレス帳に宇都宮の名前があって、彼とコンタクトを取れたとして、私は一体どんな行動を取ればいいのだろうか。  自分が見た彼女の記憶を仔細漏らさず伝えた上で、お前が愛依を殺したのだと糾弾すればいいのか? それとも直接本人にではなく別の第三者に告白すれば良いのか?  いくら頭の悪い私でもそれがあまりにも短絡的で、決して利口なやり方でないということだけはわかった。  超能力で見た光景を話したところで愛依本人の記憶だとは誰も信じてはくれないだろう。単なる妄言だと一蹴されるだけだ。  何よりも彼が愛依を殺す動機が全くわからない。  あの車の中での出来事が真実だとすれば、あれはどう考えても衝動的とは思えない。明らかに計画的な犯行だ。  つまり、彼には愛依を殺す明確な動機があるはずなのだが、二人の接点がわからない。  愛依と舞依が学校で宇都宮を見かけたとき、二人とも彼とは面識があるような素振りは見せなかった。もちろん二人がわざと知らない振りをしていたということも考えられるが、その可能性は極めて低いだろう。  直接宇都宮に話をして過去に愛依との面識がなかったのかを確かめるべきなのか。しかし彼がシラを切ってしまったら、もうそれ以上追及できなくなってしまう。  それに、もし本当に宇都宮が犯人だとしたら、まさかとは思うが彼は私をも口封じのために殺そうと思うのだろうか。  彼に会いに行くことは火中の栗を拾うようなものなのか。  舞依はサイコメトリーで感じ取った愛依の記憶に間違いはないと言ってくれた。ひょっとすると愛依と宇都宮の接点について何か知っているかもしれない。  しかし、このことを舞依に話して彼女は冷静でいられるのだろうか。逆上して宇都宮に詰め寄るかもしれないし、最悪の事態は宇都宮と差し違えるなんて事を考えるかもしれない。  そんな状況に陥ったとき、私は彼女を止められるのだろうか。  やはり舞依に犯人を打ち明けるべきではないなのか。  だめだ。私一人ではあまりにも荷が重すぎる。私の中の正義感だとか勇気などと言ったものがみるみる消失していった。  自分が手にしているピースがどこに当てはまるのかがわからずに穴ぼこだらけのパズルを目の前にして黄昏れていているときのような虚しさを味わいながら、ただベッドの中で夜が明けるのを待った。  翌朝、私は学校へ行く振りをして家を出ると、そのまま『あみん』へ向かった。  私が困ったときに相談相手になってくれる唯一の大人である藤井なら冷静に、客観的に状況判断してくれるはずだ。  もう私には最後の希望だった。どんな答えであろうと彼が出した結論ならばそれに従う覚悟だった。  宇都宮に会って問いただせと言われたら、その足で警察へ行くつもりだった。もうこれ以上深追いするなと言われたら、私はこのことについては貝のように口を閉ざして自分の中に閉じ込めてしまってもいいとさえ思った。  そうやって腹を決めてしまうと、案外と気持ちが楽になった。  いつものように軽やかにお店の扉を開けると、いつもと変わらないドアベルとマスターの声が私を出迎えてくれた。  店に入ってすぐに藤井がいつも座っている席を見た。が、そこには彼の姿はなかった。 「今日はまだ来てませんよ」  私が藤井のことを尋ねるよりも先にマスターが答えた。 「昨日は昼間岡山で営業があって、それから大阪でテレビの収録が夜中まであったみたいでしたから、まだ向こうにいるでしょう」 「そうなんですか」  私は少し気落ちした声でそう言いながらカウンター席に座った。 「こちらに戻ってくるのはお昼頃になるんじゃないでしょうか。それまでここで待ちますか?」  私は返答に悩んだ。昼までにはまだ大分時間があるし、営業帰りの彼が『あみん』に顔を出すとは限らない。 「彼にはお土産を買ってくるようにと伝えていますから、恐らく帰りがけに店に立ち寄ると思いますよ」  それならば、とマスターの言葉にうなずいてしばらくお店で待つことに決めた。どうせ初めから学校を休むつもりでいたのだし、一刻一秒を争うほどのことでもないだろうとその時は思っていた。 「白岡さん、もう朝食はお済みですか?」  私は首を横に振った。 「それでは、何かモーニングでも用意しましょうか。もちろんお代は彼に付けておきますから」  店内に流れるクラシックを聴きながら、手際よくモーニングセットを作るマスターの立ち振る舞いを目で追いかけていた。  無駄な動作がない彼の所作はまるで職人芸を見ているみたいで楽しかった。  小さい頃に実演販売をしている蕎麦屋があって、店主が黙々と蕎麦打ちをしている姿を窓ガラス越しにいつまでも飽きもせず見ていたことを思い出した。 「白岡さん、しばらくお店に顔出していませんでしたね」 「あ、えぇ。すいませんでした」 「いえいえ。白岡さんも受験生ですからお忙しかったのでしょうね」  いろいろあって足が遠のいていたのは事実だが、別に受験生だからという理由ではない。 「えぇ、まぁ」  秋の気配が感じられる時期だというのに受験勉強というのをまだ本気でやったことがないことに若干引け目を感じながら、曖昧に返事をした。 「蓮田さんともずっとお目にかかれていませんが、お元気ですか?」  あ、と思わず声を漏らした。  紀子が退院したら連れてこようと思っていたのに、いろんなことがあってまだ連れてきていないことに気付いた。 「紀子は元気です。今度連れてきますね」  マスターは顔を上げ、私に向かってニコッと笑った。  お店の雰囲気や店内に流れる音楽、芳醇なコーヒーの香りやおいしいケーキでひょっとしたら紀子が何か思いだしてくれたらと淡い期待を抱いた。思い出してくれなくても、このお店を気に入ってまた二人で来られるようになれればそれはそれで嬉しいことだ。 「おまちどおさまです」  私の前に白いお皿が差し出された。そこにはトーストとベーコンエッグと生野菜サラダが綺麗に盛り付けられていた。そしてその横にオレンジジュースの入った小さなグラスが添えられた。 「コーヒーはもうお出ししてもよろしいですか? それとも食後になさいますか?」 「いつでも大丈夫です」 「かしこまりました」  マスターがコーヒーを淹れる準備を始めた。  プレートに盛られたサラダにフォークを落とした。新鮮なレタスやキャベツ達が口の中でシャキシャキと音を立てる。トマトもほどよい酸味で果肉も瑞々しい。  卵は何もかけなくてもベーコンの塩気だけで十分味がした。  トーストも表面のカリッとした歯ごたえと中のふんわりしっとり感が絶妙のバランスで、噛めば噛むほどに感じられる甘味がバターと見事に調和していた。  前の晩から何も食べていないことを差し引いたとしても、間違いなくこのモーニングセットは自分史上最高においしかった。シンプルな素材でこれだけおいしいと思わせるのは単に具材が良いだけじゃない。具材の良さを百パーセント引き出すマスターの腕があってこそだ。  お母さんが作ってくれる朝食も当然おいしい。こちらはすでに殿堂入りしているので敢えて評価するまでもないが。  夢中で食べ終え、コーヒーを飲み干すと、胃が落ち着いたせいなのか血液が胃へ集中したせいなのか、猛烈な睡魔に襲われた。  前の晩はほとんど寝ていなかった上に静かな店内にコーヒーの良い香りとクラシック音楽。これで私が眠らない理由などあろうはずがない。  それに藤井がお店に来たらきっとマスターが教えてくれるだろう。  そんな安心感も手伝ってか、お皿が片付けられて綺麗になったカウンターに突っ伏した。  果報は寝て待て。  薄れ行く意識の中でふと、そんな言葉が頭をよぎったかと思うとそのまま私は眠りに落ちた。  真っ暗闇の中、遠くで何か物音が聞こえる。それは金属音のように甲高い音だ。人の叫び声のようにも聞こえる。  一定の音程で繰り返し聞こえてはいるが何だかわからない。  私は耳を澄ましてその音を注意深く聞こうとするが、どうやっても耳鳴りのようなノイズにかき消されてそれ以上は聞こえない。  目を凝らしてみても何も見えない。  そこが熱いのか寒いのか、広いのか狭いのか、自分が立っているのか寝ているのか、それとも宙に浮いているのかすらもわからない。  何も感じない。  おそらく宇宙に放り出されたらこんな感じなのかも知れないが、音が聞こえているのだからここが宇宙空間ではないことだけはわかった。  そして、その音を遮るように、不意に私の耳許で舞依の声がした。 「ゆかり」  私はハッとなって目を開けた。  顔を上げて、そこが『あみん』の店内だと認識するのに二秒ほどかかった。  そうだ、私はここに来てモーニングを食べて、そのまま寝てしまったんだ。  私は時間を確かめようと、上着のポケットからスマホを取り出した。  液晶画面にはショートメールの着信を示すメッセージが浮かび上がっていた。その送信者の名前を見て私は慌ててメールを開いた。 「今警察に向かってる」  舞依からのメールを見た瞬間、私の眠気は一気に吹き飛んだ。 「一人?」  そうメールを返して舞依からの返事を待った。舞依からメールが返って来るその数秒すらもどかしかった。 「刑事さんと一緒」 「よく学校に来る刑事?」 「そう」  私は確認のためにもう一つ質問した。 「刑事さんは腕にケガしてる?」 「包帯巻いてる」  全身が総毛立った。  宇都宮のケガは愛依を殺したとき彼女に抵抗されたときのものだ。  今頃舞依は宇都宮の車に乗って一緒に移動しているに違いない。  ぞわぞわとする不快な胸騒ぎに襲われて、もういても立ってもいられなかった。  私はスマホを握りしめたまま店を飛び出した。 「どちらへお出かけですか? 彼はまだ来ていませんよ」  店の外でホウキとちりとりを持ったマスターが声をかけた。 「すいません、急用ができちゃって。あの、私のカバン見といてもらえますか?」 「それは構いませんけど」  キョトンとするマスターを尻目に私は狭い路地を駆け出した。  来るときは薄曇りだった空はいつの間にか厚い雲に覆われてどんよりとしていた。  商店街の大通りに出ると、駅とは逆の方向に向かった。はっきりとした根拠はなかったが、自分の勘と足がそっちへ行け、と言っているような気がした。  舞依から宇都宮に会いに行ったのか? いやその逆だ。宇都宮から舞依に接触したのだ。  だとしたら、舞依が危ない。そう直感した。  ただ二人はどこに向かっているのか、私はこれからどこに向かえばいいのか全くわからなかった。  商店街を抜けようかという辺りで息が上がり、足を止めてしまった。 「今どの辺にいるの?」  猛ダッシュした犬のようにハアハアと荒い息を吐きながら、震える指でメールを打った。 「わからない。市街?」  街中でないと言うことは……嫌な予感が頭をかすめた。  落ち着け。こういう時にこそ落ち着くんだ。  私は呼吸を整え、これからどうするべきかを考えることにした。  私の勘が確かなら、宇都宮が行く場所はあそこしかない。  以前愛依が連れて行かれたあの倉庫だ。  倉庫がどこにあるかは全くわからなかったが、愛依の記憶と舞依のメールから感じるシンパシーから私の超能力者としての能力をフルに発揮すれば、不可能なことではないはずだ。それはかつて赤羽の事故を未然に防いだときのように。  あの曲がり角を右に折れたら目の前に倉庫が現れることをイメージしながら再び駆け出した。  住宅地のブロック塀に囲まれた交差点を右に折れると道路は急に細くなり、それまで密集していた住宅街から一変して草むらや田畑が目立つようになった。  空はさっきよりも更に灰色の雲が支配し、今にも雨が降りそうだった。  人気の少なくなった道路を走る私の足に躊躇はなかった。確証はないが、この先に倉庫があるに違いないという確信めいたものがあった。どうしてそう思えるのかはわからない。ただ、なかったらどうしようなどと言ういつものネガティブな感情は一切湧かなかった。  道路も次第に荒れ始め、でこぼこが目立つアスファルト道路を進んでいくと、やがて小さな雑木林の陰に隠れるように建っている倉庫が見えた。  鉄製の外壁はあちこち錆び付いていて、その周囲に無造作に生い茂る雑草が長い間誰もそこに立ち入っていないこと示していた。  夢の中で見たときよりも荒廃しているように見えたのは、愛依が見た十年前から時間が経過して記憶と現実とが乖離しているからだろう。  倉庫の前には砂利が敷いてあって車が二、三台は停まれるほどの広さがあるが、宇都宮の車は見当たらなかった。まだ着いていないのか、それとも雑木林の裏にでも隠しているのか。  念のため周囲を見渡してみたが、人の気配は感じなかった。  倉庫の正面は大きな引き戸になっているが、こびりつく赤錆は外部からの侵入を拒んでいるように見えた。  他に入り口はないのかと裏へ回ろうとしたとき、背後で小石を弾くタイヤの音がした。  振り返ると、学校で見かけたのと同じ車が私のすぐ手前まで来て止まった。  私は運転席よりも先に助手席にいる舞依を見た。彼女はぐったりとうなだれたまま身動き一つしていなかった。  そのまま視線を左に動かした。運転席の宇都宮は私を睨みつけるような目でこちらを見ていた。  舞依は薬か何かで眠らされているのか、それとも……。  よからぬ想像が一瞬脳裏をかすめて、私はすぐにそれを否定した。  そんなはずはない、と。  エンジンを切って運転席からゆっくりとワイシャツ姿の宇都宮が出てきた。シャツの袖口からは白い包帯が覗いていた。 「驚いたな。まさかお前がここにいるとはな。ま、お前もエスパーの端くれだからそのくらいのことはできるのか」  宇都宮の言葉には答えずに黙って彼の顔を睨み返した。  まぁいいや、と言って彼は車のドアを閉めた。 「おじさん、舞依に何かしたの?」  私は彼から目を逸らさずに言った。 「安心しろ。気持ちよく寝てるだけだ」  ここからではフロントガラスが反射して舞依の顔がよく見えなかった。かろうじて彼女の肩から腰にかけて彼の上着らしきものが掛けられているのがわかった。  彼の方に向き直ったとき、私は息を呑んだ。  黒い銃口がこちらに向けられていた。  その瞬間、今までの私の推理がすべて正解だったのだと知った。 「愛依ちゃんを殺したのは、おじさんだったんだ……」  怒気を帯びた低い声が腹の奥から吐き出た。 「中に入れ」  宇都宮は表情を変えずに静かに言った。  彼の言葉は私の耳には「これから倉庫の中でお前を殺す」と言っているように聞こえた。  しかしその時の私に恐怖心は全くなかった。恐怖よりも怒りの方が圧倒的に上回っていた。いざとなれば私には超能力があるのだ、という何の根拠もない自信がそうさせていた。  私が正面ではなく倉庫脇の方へ歩いて行こうとすると、宇都宮が呼び止めた。 「おい、目の前に扉があるだろ」  立ち止まり、背中を向けたまま私は答えた。 「錆び付いていて、私の力じゃ開かないわ」 「やってみなくちゃわかんねぇだろ」  赤茶色に変色している鉄製の扉はどうやっても私の非力ではびくともしないことを証明させるために私は無言のまま扉に手をかけ、力一杯引いてみせた。  案の定、重い扉は一ミリも動かなかった。 「裏にも出入り口があったはずだ」  ようやく納得したのか、彼はもう一方の扉に私を向かわせた。  私は歩きながら舞依に話しかけてみたが、彼女からの返事はなかった。  舞依は本当に宇都宮に殺されたのか。  私は生まれて初めて憎悪という感情を抱いた。 「変な気は起こすなよ。この距離だったらいつだってお前を撃ち殺せるんだからな」  逃げる気なんかさらさらない。  私はどうすれば愛依と舞依の敵を討てるのかだけを考えていた。  スプーンを曲げたときのように彼の拳銃をねじ曲げて、それでも素手で襲いかかってくるようだったらサイコキネシスで遠くへ放り投げてやる。いやそんなのでは生ぬるい。もっと痛みを、苦しみを味わせてやりたい。  伸びた雑草を踏みつけながら壁伝いに歩くと、やがて古びた開き戸が目に入った。  最初は立て付けが悪くて苦労したものの、ドアノブを握ったままドアが開くように念じてみたところ、事もなげにドアを開けることができた。  一歩中に入った途端、カビと埃の入り混じった匂いが鼻をついた。二、三回呼吸しただけで喉の奥に異物感を感じて思わず咳き込んだ。 「もっと中に入れ」  まだ目が慣れない状態で恐る恐る前に進んだ。バタンと乱暴に宇都宮がドアを閉めると室内は真っ暗になった。  この暗闇と埃っぽくてひんやりとした空気が、また愛依の記憶と重なった。 「ここって、愛依ちゃんが子供の時に連れてこられたんでしょ?」  倉庫の中で自分の声が反響する。 「お前にしては勘がいいな」 「おじさんは、愛依ちゃんがここでどんな目に遭ったのかも知ってるのね」 「いいや。俺が知っているのは、この倉庫に那須野愛依がいて、その時ここにいたと思われる男が三人とも変死したってことだけだ」  背中越しに見えるはずのない宇都宮の姿が手に取るようにわかった。彼は銃を握っているものの指は引き金にはかかっていない。 「おじさんは、その男達は愛依ちゃんに殺されたとでも思ってるわけ?」 「お前、事件のことをよく知ってるな。ま、本人から直接聞いたんだろうがな」  事件のことを愛依の死体からサイコメトリーで知ったと言ったら彼は信じるだろうか。 「その時の事件を担当したのがおじさんだったの?」  すぐには返事がなく、一つ間を置いてから彼は答えた。 「確かに最初は俺が事件(ヤマ)を追いかけてた。しかし、途中で抜けることになった……ま、正確には下ろされたんだがな」 「どうして?」  彼の鼻から息を吐く音が聞こえた。 「捜査に私情を持ち込むな、と上司に言われてな」  銃口が私からそっぽを向いた。今の私なら超能力で彼から銃を奪えるんじゃないかとさえ一瞬思った。が、それはしなかった。 「……変死した一人は、俺の後輩だった。真面目で熱血漢だった。『正義のヒーローになりたい』というのがそいつの口癖だった」 「そんな人がどうして愛依ちゃんを襲ったのよ」  銃口はうなだれるように下を向いていた。 「後でわかったことなんだが、あいつには異常な性癖があった……ロリコンだったんだ。一緒に死んだ奴らとはネットで知り合ったらしい」  元々死んだ彼らには同情の余地など一切なかった。むしろ死んで当然だと思った。 「可哀想だけど自業自得よね」  もちろん宇都宮に対しても同情の欠片もなかった。 「おじさんは同僚を殺されて、愛依ちゃんに逆恨みしたって訳ね」  そう言いながら、いくら同僚が死んだ現場に愛依がいたからと言って彼女を逆恨みするのは少し不自然だと思った。むしろ断罪すべきは後輩の方ではないのか。  彼は愛依だけではなく舞依も殺している。西那須野姉妹への逆恨みだけでここまでやるのはいくら何でもやり過ぎだ。  二人に関係する誰かへの恨みなのか?  彼の動機は一体何なのだ?  私はまたわからなくなった。 「どうして愛依ちゃんを殺したの?」  私のストレートな問いかけに反応するように、銃口が再びこちらを向いた。今度は引き金に指がかかっている。 「最後だから、教えてやるよ」  宇都宮の表情が急に変わり、殺気立っている。 「俺は超能力者って奴が大っ嫌いなんだ」  私は彼の口から〝超能力者〟という言葉を聞いて、一瞬呆気にとられた。彼は超能力者の存在を認めているのか。 「あたしも超能力者だけど」  ふん、と彼は鼻を鳴らした。 「お前の超能力なんか俺からしたら屁みたいなもんだ。本物の超能力者はな、化け物だ。人間の皮を被った化け物だ」  宇都宮の言葉が私にはピンとこなかった。彼は何を言ってるんだ? 「どうしてそう思うのよ」  なぜ宇都宮は超能力者を化け物扱いするのか、その真意が知りたかった。 「……俺が以前付き合っていた彼女が超能力者だったんだ」  それは想定外の返事だった。余計に混乱しそうになった。  宇都宮の話は、超能力者=化け物だと言っている。そして宇都宮の元カノ=超能力者ということだから、すなわち宇都宮の元カノ=化け物、ということなのか。 「どうしておじさんの元カノが化け物なのよ?」  宇都宮の言葉通りだとすると、自分自身はもちろん、藤井も愛依も舞依も紀子も、私が知っている超能力者は皆〝化け物〟ということになるが、どれも〝化け物〟からはほど遠く似ても似つかない。 「今言ったとおりだ。超能力者なんてのはまともな奴じゃねぇ」  何だか振られた腹いせに化け物呼ばわりしているような気がした。だとしたら彼は相当ちっちゃい男だ。 「つまり、愛依ちゃんも化け物ってことなの?」  あぁ、と気のない返事をした。彼のトーンとは裏腹に銃口はしっかりとこちらを向いたままだ。 「俺がこの倉庫で西那須野愛依を保護したとき、床に無数の血痕が付いているのに気が付いた。そこで鑑識が調べていると、天井からしずくのようなものが落ちてきた。最初は赤い塗料か何かかと思って天井を見たら、天井に男の死体が貼り付いていた。赤いのは塗料じゃなく、血だったんだ……」  宇都宮は淡々と話し出した。 「死体はまるで粘土を投げつけたみたいにビタッと貼り付いていた。鑑識は『よほどものすごい勢いで投げ飛ばさない限りああにはならない』と言っていた」  三人のうちの一人か。その人物が歌のお兄さんなのか短髪なのか眼鏡なのかという点については全く興味がなかった。 「他の人は見つかったの?」 「一人はこの近くの高圧鉄塔に引っ掛かっていた。もう一人はここから五キロ先のビルの避雷針に串刺しの状態で見つかった」  どれも皆酷い死に方だ。三人とも愛依が超能力を使ったのだろうか。  ただ、愛依が無意識のうちに超能力を使ったとしたのなら、それは不可抗力だ。仕方のなかったことだ。むしろ愛依を襲った男達が責められるべきだ。 「幼児を襲ったのは男達が悪い。だが、その三人が何者かに命を奪われたのも事実だ」  この距離で銃弾が発射されれば間違いなく命中する。そうしたら私は確実に死ぬ。だからと言って私は彼に命乞いをするような真似はしたくなかった。そして同時に私は絶対に彼に殺されるものかと固く思った。  私には超能力がある。  銃口から弾が出なければいい。もし素手で襲い掛かってくるようなことがあっても彼を飛ばしてしまえばいい。  私は彼の銃口から弾が出ないようにと祈った。いや正確には、出ないようにイメージした。 「例えそれが愛依ちゃんがやったことだとしても、彼女は悪くないわ。正当防衛よ。おじさんが愛依ちゃんを憎いと思うのは、おじさんの後輩が死んだからでしょ。そもそも愛依ちゃんが三人を殺したという証拠はないはずだわ。それなのに、おじさんは愛依ちゃんを殺して、舞依まで殺した」  なぜかそれまでと違って、自分の超能力に疑問や不安を感じなかった。自分が思えば間違いなく思った通りの結果になるだろうと確信していた。だから私には焦りなどなかった。 「ねぇ、どうして舞依を殺したの?」  宇都宮は黙ったまま答えなかった。 「ねぇ、どうして殺したのよ?」  私の声が震えていた。それは怒りのせいなのか悲しみのせいなのかはわからなかった。 「お前は俺が西那須野の二人を殺したと言っているのか?」 「じゃあ、一体誰が殺したの? おじさんなんでしょ?」  宇都宮が銃を構えた。怪我をしている右手首を庇うようにしっかりと左手が添えられていた。  銃口は私の背中あるいは肩胛骨の辺りを向いていた。この距離なら弾が外れることはないだろう。でも……。  大丈夫、あそこから弾は出ない。 「お前も自爆するなら今だぞ。それとも俺を木っ端微塵にするか?」  彼が何を言っているのかわからなかった。 「何それ? 私にはそんな物騒な能力なんてないわ」  宇都宮が微かに笑った。 「だろうな。お前がいくら超能力者と言ったって、しょぼくれてるもんな」 「もしかして、おじさんの元カノはそんな凄い能力があったの?」  ジリッと彼が少しだけ間合いを詰めた。確実に私を撃とうとしている。 「凄いなんてもんじゃないぜ。何たって、襲ってきた男をダイナマイトで吹っ飛ばすみたいに木っ端微塵にして、挙げ句の果てには自分自身も同じように自爆しちまった」  どうしてそういうことになったのかはよくわからないが、その超能力が凄いと言うことだけは十分に伝わった。 「ねぇ、最後に教えて」  そっと振り返ろうとして少しだけ首を曲げた。 「動くんじゃねぇ」  私は黙ってまた前に向き直った。 「何だ?」 「おじさんはどうして舞依を殺したの? それだけ教えて。舞依は過去の事件には無関係だったんでしょ」 「そうだな。西那須野舞依は事件とは無関係だ。ただ敢えて理由付けするなら、彼女は西那須野愛依の妹だと言うことだな」 「? どういうことよ?」 「超能力者(エスパー)はみんなやべえ奴らだ。生かしちゃいけない連中だ」 「そんなの理由にならないわ。無茶苦茶よ」 「うるせぇ!」  彼の指に力が入るのがわかった。  大丈夫、弾は出ない。  ボゥッ!  引き金を引くのとほぼ同時に、籠もった爆発音と、彼のうめき声がした。 「アウッ!」  振り返ると、宇都宮が身を屈めてうずくまっていた。そして彼の周囲には鮮血が飛び散っていた。  何が起きたのか、すぐにはわからなかった。 「アァァァァァァァァァッ!」  彼の叫び声が倉庫の中で反響した。  苦悶の表情を浮かべながら押さえている右手から止めどなく血が流れ出ていた。よく見ると小指以外の指がなくなっていた。  拳銃が暴発したのだとその時気付いた。  それは、私が弾が出ないようにと念じたからか。  私は単純にスカッと空振りするみたいになるのかと思っていたのだが、実際には暴発してしまったらしい。  我に返った私は途端にいたたまれない気持ちになった。 「救急車を!」  そう言ってスマホを取り出した。  彼は顔中から脂汗を流しながら、弱々しく首を横に振った。 「……だめ、だ……」  しかしこのままでは宇都宮は出血多量で死んでしまう。  私はポケットの中をまさぐった。そして奇跡的に入っていたハンカチで取り敢えず止血するために彼の腕を掴んだ。  その時だった。  彼の記憶が、突然私の中に飛び込んできた。  私は脳裏で再生を始める映像を何の制御もすることができなかった。 (つづく)
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