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薔薇が植えられた中庭を通り抜ける。到着した白壁の豪邸は、百七美ちゃんが普段暮らす家であるらしい。その一室が練習室だった。
防音仕様の部屋。窓は北側にしかなく、窓のない壁の三方には天井にまで届く本棚が設置されていて、楽譜がびっしりと収められている。今時珍しい紙の楽譜集だ。そして、部屋の中央には一台のグランドピアノが鎮座している。
「泉菜さんは、どんな曲をよく弾くのですか」
百七美ちゃんはそう言いながら私にピアノの前の椅子をすすめる。
「大学の専攻はクラシック音楽だし、年代ごとの有名な曲は一通り押さえてるつもりだよ。その中でも特によく弾くのはショパンとドビュッシーかな」
私が座ると、百七美ちゃんは部屋の隅から椅子を持ってきて、ピアノから少し離れたところに腰を下ろした。さながら観客が百七美ちゃんであり、演者が自分のようだ。百七美ちゃんは私に演奏してほしいのだろうか。
鍵盤の上で音階を適当に鳴らす。オートメーション化されていない、ここ数年流行の演奏補助AIも導入されてない、アンティークなピアノらしい。お金持ちの家のジーンリッチが使うくらいだから、最新鋭の技術でもつめこまれているかと思ったのに。ちょっぴり拍子抜けした。けれど古いながらも狂った音は一つもなく、手入れは行き届いている。
「このピアノ、よく響いていい感じね」
「はい。そうなんです。管理は気をつけています」
「いい調律師さんにも巡り会えたみたいね。あ、そうそう。百七美ちゃんは好きな作曲家はいるの?」
「はい。好きです、私も。ショパンとドビュッシーが」
百七美ちゃんは頬を緩ませた。かと思えばまた神妙な面もちになって、私に尋ねる。
「泉菜さんの演奏、生で聴いてみたいです。一曲、弾いていただけないでしょうか」
「ええ、大丈夫だけど……」
――私が椿野川邸にやってきた理由。それは百七美ちゃんのクラシックピアノの指導をするためだ。
私と百七美ちゃんはクラシックピアノの先生を同じくする、いわば姉妹弟子の関係である。もっとも、年齢も四つ離れていれば入門年次も百七美ちゃんより私のほうがずっと前で、先生から話を聞くまで百七美ちゃんの存在を知らなかったのだけど。
その上、私とは違い、百七美ちゃんは音楽家の道を目指していないと事前に先生から聞き及んでいる。『自身の研鑽にもなるから、百七美ちゃんのサポートをしてほしい』先生からこう頼まれたのもほんの一週間前のこと。
『受験勉強に取り組む前、最初で最後の記念としてクラシックピアノのコンクールに出たい』と、百七美ちゃんが先生に相談したそうだ。そこで先生は、指導のサポート役として私を指名したのである。
私には、不安があった。
「百七美ちゃんは私でよかった?」
例えば、私が百七美ちゃんに実力を疑われているのか、とか。
「はい。是非泉菜さんにお願いしたいと先生に言ったのは私からです」
ところが、事も無げに百七美ちゃんは否定した。一曲求められたのは品定めなのかと思ったのに。まあ、品定めされたところで受けて立つだけだ。
「泉菜さんが三ヶ月前のコンクールで優勝されたときの演奏をアーカイブで聴きました。すごく鳥肌が立ちました。私もこんな演奏を目指したいと思い、先生に訊いたら同じ教室の方だと言われて。会ってみたくて」
淡々と語るも頬を、朱に染める百七美ちゃん。
「そうだったんだ、嬉しいな。だったら折角だし、あのとき弾いた曲で」
演奏をほめられるのは嬉しい。
ただ、ジーンリッチに言われると少し複雑な気持ちだ。
鍵盤に集中する前の刹那、ずきりと頭が痛んだ。
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