04_概念と実体のアンサンブル

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04_概念と実体のアンサンブル

――ポラロイドとは異なる手法を選んだインスタントカメラは無数の小部屋を生み出し続けていた。モノクロで描かれる正六面体の結晶たちに、それより外の階層によって“扱われる”瞬間が訪れる。  足元の、空より手前でピントの合う車輪を見つめる。回った分だけ私たちを乗せた自転車が進んでいるようには見えないけれど、全くの空回りという感じでもない。車輪は何かの摩擦や抵抗を受けながら回り、ナツは一生懸命自転車を漕いでいる。私はと言えばナツにしがみついて荷台の上で重心を探るだけで精一杯だ。自転車は斜め上を目指して飛んでいる。言い換えてみると透明な坂を上るように空を走っている。無限遠の青い空間は見ようとすればやっぱり少し怖い。しかも時間が止まったように無風だった空は私たちがゆっくりと進むことで疑似的に風を取り戻し始めた。ナツはどんな感覚でハンドルを握ってペダルを漕いでいるのだろう。 「見て、上! 別の塊!」 「うわ……」  顔を上げる前に視界が暗くなった。大きな……円盤? その影の下に私たちが入ったのか。高校のグラウンドくらいの大きさはありそうな巨大な黒い塊もまた空に浮かんでいる。悠然と、漂うように。 「この向きだとぶつかりそうだ、曲がるよ!」  ナツ船長が舵を切った車体は少し傾く。不思議な加減で斜めに滑るようにして軌道が変わり、それから円盤の縁を目指して斜め上に進み始めた。 「大丈夫? 怖くない?」  少し揺れるナツの小さな背中が問う。 「ちょっと怖いよ。落ちたらどうしよう、って。ナツは怖くないの?」 「もちろん怖いさ。まあとりあえず下を見ないことだね」  なるほどそうしよう。どこまでも深い空は上にも下にも前後左右にもあって、落ちるときには下へ向かうというだけなのだ。 「それから楽しそうな“次”を考えること! さて、あれは何だと思う?」 「うーん……下から見ると丸い板にしか」 「実は巨大なおせんべいだった」 「あんまり美味しそうな色には見えない」  そうか、ナツは一度あの大きな塊の上に何が乗っているのかを見てから私のところに来たんだ。  少しずつ高度を上げて近付いていくと円盤状の塊の質感が見えてきた。地層の断面のように縞模様ができている。規則正しく並べられたダンベルのような模様のブロックが並ぶ層、別のところは黒い……アスファルト? 見たことがあるようなザラザラとした層がある。 「道路……の裏側?」 「おっと、まだ答えは言わない」  裏側。普段見られるはずもない面を見て私がそう言ったのは、アスファルトもコンクリートのブロックも表裏があまり変わらないと思うから。それと駅舎の光景から“切り取られたような何か”がここには存在するのだと覚えたからだ。つまり天地は反転しておらず、道路の“表側”が大きな円盤の上にあるはずというのが私の推測。自転車は私たちの視点を緩やかに上昇させ続け、やがて同じ高さにまで上がり、私たちの目線はその上へと出た。 「道路……だね」 「見事に正解だったから勿体ぶりました」  不思議な、でも見慣れたはずの奇妙な光景。道路とガードレールがある空間がざっくりと丸く切り取られて、電話ボックスに、建物の……影? 一瞬ここが“地上のどこか”であると錯覚してしまった。ちょうど人間の視界が無意識に切り取るスケールで景色が広がったからか。歩道、車道、反対側の歩道、道路に沿う建物たちの一面。民家もコンビニらしき建物もあるけれど、駅舎と違ってほぼ全てのものが色褪せたようになっている。改めて全容を見てみるとこの島は駅の島よりも小さいのかもしれない。 「さあ上陸するよ。見せたいものはあっちにあるんだ」  ナツはハンドルから片手を離して反対側の歩道を指さした。 「……あ」  導かれた視線の先に、私は人影を見つけた。しかも二人並んで。 「ヒトがいる、と思ったでしょ?」  そうじゃないとでも、と返しそうになって私はその人影たちの色味に気付く。まだ少し距離があるから自信はないけれど、二人の後ろ姿はどこか色褪せているように見える。周りの道路や建物と同じように、セピア色に退色した古い写真のように。しかも私がじっと見つめている間、ぴたりと時間が止まったような二人は少しも動こうとしない。  魔法の自転車が空に浮いた地面に降り立った。頼りない重力がまたどこからか現れて、私たちも地上のそれと変わらない感覚で切り取られた地面に足を付ける。しゃがんで、そっと地面に手を当てた。狭くなった視界も指先が確かめたアスファルトの質感もここが“どこかの道路”であると答えるのに、私の目だけはでたらめな物理法則の側に立って褪せた色調を警告の材料にしている。立ち上がって足元を確かめた。真横から見た地面はそれほど厚さがあるようには見えなかったのに、そっと踏みしめても穴が開いて落っこちるような脆さは感じない。むしろどっしりと構えている。 「よっと」  ナツがスタンドを立てて自転車を自立させた。緑の肩掛け鞄も大きな前カゴの中へ。 「どこかに飛んで行ったりしない?」 「大丈夫」  最初にこの自転車を手にしたときにあれこれ確かめたとナツ。思えばあの駅でもこうやって停めていた。自転車様は空に浮かぶ物同士を行き来する唯一の手段であり、今のところ替えの利かない魔法のようなアイテム。ナツにもその認識は共通だ。  横断歩道も無ければ信号も無い車道、きっとオレンジ色をしていた中央線を越えて対岸へと渡る。ガードレールを跨いでダンベル型ブロックの敷き詰められた歩道に降りた。 「これ、面白いと思わない?」 「面白いというか、不思議というか」  建物は正面の僅かな厚み分だけが切り取られていた。まるで模型を上からスライスしたようになっていて、横に回れば少しの中身と断面が見えてしまう。アンバランスな板状の断片は奇妙なことに倒れもせず、 「どうなってるの、これ……」  ふと隣の建物を見れば瓦屋根らしき部分だけが宙に浮いていた。 「適当にスパッと切り取って空間に固定したようにしか見えないよね」 「うん……。物が浮かぶのはもう気にしないことにしようかな……」  色褪せたコンビニの看板の下、閉じた入り口のドアはもっと奇妙なことになっていた。ガラスの向こうに“存在しない店内の様子”が見えるのだ。斜め横に回ってガラスの向こうを見れば薄青い空しかないのに、ガラスの前から見た店内には陳列された賑やかな商品や店員さんとお客さんの姿が見える。ただしこれも静止画のように。 (……ん?) 「何か思い付いた?」  立ち止まった私をナツが気遣う。 「うーん……思い付きかけたような気がしたんだけど」  単語一つ程度の何かを探り当てたような気がして、しかし遠退いてしまう。 「あれを近くで見たら思い付くかも」  ナツは自転車の上から一度ポイントした二つの人影を再び指した。歩道の向こう、まっすぐ進んだ先に、今度は横から見た二人。少し近付いてハッキリしたが、人影は私たちと同じようにどこかの学校の制服を着ていた。一人はスライスされた建物の中を覗くように、もう一人はガードレールの継ぎ目ポールに体重を預けるような姿勢で停止している。 「あれが……概念女子高生?」  ナツが私に見せたいという…… 「そうなのです」  足早に歩道を進んでターゲットに迫った私たち。そのままつかつかと近付いてしげしげと眺める。 「どう?」  作り物には見えない。澄んだ瞳には私が反射して動いているし、何というか全身から瑞々しいエネルギーを感じるし、手を触れれば人間の手触りを返してくれそうだ。多分綺麗に染めていたであろうロングヘアの後ろ姿で古着屋らしきショーウィンドウを眺めるあの子も、前髪をちょんまげのように結んでおでこを出したこの子も、きっと停止した人間だ。ただ、面白がって身体の動きを止めてみたのではなく、本人たちが認識できぬうちに停止してしまったかのような。ちょんまげの子はガードレールに寄りかかってお店の中を眺める友だちをぼーっと待っていただけ。きっと、きっとそうだった。 「ちょっとだけ触るくらいなら怒られないと思うよ、女の子同士なんだし」  曇った窓ガラスを拭くような動作でちょんまげの子の顔の前で手を動かす私を見かねてナツが言う。……少し抵抗があるけれど、 「ごめんね、失礼します」  そっと、彼女の頬に人差し指を当てた。 「柔らかい」 「うん……じゃなくて! ナツー……」  さてはあなた、私とここに来る前に既に触ってたね? 「さあ」と言ったナツは徐に両手を後ろに回し俯いて、……ゆっくりと歩き始める。思案する探偵を真似るかのように。 「色褪せたものは空間に固定されていることがあるけれど、触れないわけでもない」  ナツは宙に浮いた縦長の看板の下で足を止めた。何にも支えられていない『スナック』と書かれた看板を見上げて、下からそれを押すように手に力を込めた。看板はびくともしない。本来ならせり出した建物の壁に繋がっていたから? 「動かせるかどうかは検証中。線路の下に落とした空き缶を拾ったときも確かめたんだ。近くにちゃんと色が付いた空き缶もあったからさ」  身体を反転させ探偵はこちらへ歩み戻る。私とちょんまげの子の間に割って入ったナツは、そのままちょんまげの子の腕を掴んだ。 「失礼して」 「ちょっと、」 「そっとやる」  彼女の左腕は、少しだけ持ち上げられた。 「ほっぺたがカチカチじゃなかったから想像できたかもしれないけど、この通り概念女子高生は動かそうと思えば動かせる。粘土の形を変えるような妙な手応えでね。この子をこの体勢のまま横にして寝かせることだってできると思う」  ナツがそんなことをしないのは分かっているけれど、ちょんまげの子が無抵抗に歩道に横たえられる姿を想像してしまう。 「色褪せたものが実のところどんな状態なのかハッキリしないんだ。ジャンプした瞬間の人間がいれば何か分かるかもしれない。……空き缶と看板と人間の何が違うかと問うなら?」  探偵は助手に意見を求める。 「元々生き物だったかどうか?」 「真っ先に考えるのはそれだよね。じゃあ、この子たちと私たちの違いは?」  答えを求めて思考を巡らせる前に、奥底で発火した電気信号が何かを探り当てた。言語化する前の概念を掴んで懸命に言葉を充てようとする。……けれど、それは広大なネットワークに溶けるように分散し走り去って行く。元の私たちと元のこの子たち。何か差異があって、この子たちは色褪せたような状態でこの場所に静止している。私たちには鮮やかな色味が付いていて、見知らぬ空で恐る恐る、しかし自由に行動している。 「違いなんて無かったのかもしれない。もし仮に、何かの偶然で私たちだけが動けているのなら、」  動けているのなら? そうか、やっと、捕まえた。 「この子たちの分まで探検するべき……かな?」 「……驚いた。私もそう思ったんだ」  助手の考えを聞いた探偵――私の答えを聞いたナツはどこか嬉しそうに言った。  そう、役割とか、階層とか、そんな言葉たちを私は捕まえた。それは私がこのような状況に置かれた時に、真っ先に探るべきものであるように思えた。一体全体“このような状況”がどんな状況で、今までそれが何度かあったことなのかどうか……分からないけれど。  ナツはちょんまげの子の腕にそっと触れると、できるだけ元あった位置に戻した。 「ん?」  ナツが顔を上げて空の一方向を眺めた。つられて見てみるけれど……何も見えない。変わらぬ広大な薄青空と、点々とした浮遊物。 (……?)  そう言えば何か音が聞こえるような。低く重い音が微かに、どこからか。 「……まずいかも。ハルカ、走るよ! 自転車のところに戻る!」 「え?」  どうしてと聞く間も概念女子高生の二人にお別れの挨拶をする間もなく、突然の全力疾走が始まった。
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