笛(こえ)

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『ご飯は、温めて食べて。先に寝ます。おやすみなさい』  連絡だけを書いた簡素なメールを地下鉄のホームで読み直すと、溜息が出た。  それでも僕はいつものように最終電車に乗って、妻の待つ家へと急いだ。  神経と体力を削りながら深夜まで働いてる僕に対する妻の態度は、結婚当初に比べて明らかに冷たくなっていた。週末にご機嫌とりも兼ねてベッドの中で誘ってみるが、相手にすらしてくれない。挙句の果てには、給料にまで文句を言われる始末だった。  そんな僕が他の女に手を出すのは、仕方の無いことだろう。  妻はただの同居人と成り下がった。文句を言うだけの機械になった。そして、僕を男として見なくなった。  体が、他の女を求めていた。  そんな時に、彼女に出会ったのは『必然』と云われるロマンチックなものだったのかもしれない。  でもその彼女とはもう、縁を切った。  あまりに僕に固執する彼女を怖がったからだ。  携帯電話をわざと壊して、連絡できないようにした。  もう、彼女と出会うことはないだろう。  生々しい体温の中で、性を吐き出したあの体の感触、そして、音。  それだけが、最高に良かった。  彼女とのセックスのことを思い出しながら、瞳を閉じる。環状線、最終電車の心地よい振動が僕を眠りの世界へ誘おうとする。必死に抗い続けたけれど、降りる二個手前の駅のアナウンスを聴いたところで、眠りの世界に滑り落ちた。  ヒールの音が近くで鳴り、その音で僕は目を覚ました。  定期的に揺れる電車、窓の外にはコンクリートの壁。  どのくらい眠っていたのか見当が付かず、携帯電話を取り出そうと上着のポケットに手を入れようとした時、目の前で立っている女性がその手を握ってきた。  ギョッとして見上げると、数週間前に別れた彼女が居た。 「やっとみつけたわ。タッちゃん」 「芽衣子……」  背中に流れる嫌な汗、そして、彼女の手の異様な冷たさに、得も言われぬ恐怖を覚えた。 「タッちゃん……、アタシ。寂しかったのよ……。全然会えなくてさ……」 「だって、もう僕等はわか……」 「でもそれはタッちゃんの仕事が忙しかったからだもんね。しょうがないよね」 「いや、芽衣子……。僕等は……」 「だからさ、私タッちゃんが使いそうな駅を全部探したの。朝から晩までジーッと人を見て過ごしたわ。たまに、タッちゃんをみつけるんだけど、人違いでさ。でも、今日は当たりみたいだね。ホンモノのタッちゃんだ」  無理矢理に力任せに僕の手を引いて、手元に引き寄せると彼女は僕を抱き締めて今までのことを耳元で囁く。  その全てを否定しようと声を発そうとするけれど、彼女は意に介さずに話し続ける。その手から抜け出そうとしても、万力で締められているかのように抜け出すことが出来ない。 「でね、タッちゃん。アタシ、昨日検診に行ったら子供が出来てたの。タッちゃんの子供。もう、私嬉しくて嬉しくて」 「え……?」 「でもね、パパもママも、産んじゃ駄目なんていうの。私、悲しくてさ……。ほんとに悲しくて。だって、タッちゃんいないし、この子はどうなるんだろうなんて思ってさ」  万力の様に締め上げていた腕が、ゆっくりと解かれていく。それと同時に、何か生臭い臭いが僕の鼻を刺激した。 「だから、私」  ゆっくりとくっついていた体が離れて、彼女の顔が目の前に来た。 「最終電車に、身を投げたのよ」  原型を留めない彼女の顔の口らしき穴から、言葉が出てくる。 「ね、キスしてよ。そして、エッチしようよ。あの時みたいに、さ」  顔が近付いた瞬間に、本能的に彼女を突き飛ばしていた。  そのまま最前の車両へと全力で走り、扉を閉めた。  扉を、芽衣子が狂ったように叩いていた。 「芽衣子、許してくれ。そんな風になるなんて、僕は……」 「泣かないで、タッちゃん。誤解だよ。アタシは大丈夫だよ」  容赦なく叩かれる扉を必死で押さえる、けれども、その音は増殖していった。  その車両の窓という窓を小さな手が叩いている。 「タッちゃぁん、私達の赤ちゃんだよぉ……」 「うわあああああああああああああ」  叫び声でその音全てをかき消そうとした。  目を閉じて、全てから目を逸らそうとした。  そして、少しの静寂が訪れた。  駅の明かりが見えてくる。 「助かった……」  ゆっくりと電車はホームに進入し……、そのまま通り過ぎた。 「おい、待てよ!俺が降りるんだ!おい!」 「降ろさないよぉ、タッちゃぁん。ずっと、ずっと」 「嫌だ、嫌だよ。僕は、あの日常に帰るんだ」 「一緒に、いようよ。赤ちゃんも、それを望んでいるんだ」  ブツッ、という音の後に胎動する車内に響く赤ん坊の泣き声、泣き声、泣き声。ヒステリックに、何かを望む泣き声がした瞬間、意識が途切れた。 「お客さん、こんな所で寝ないで下さい」  目を覚ますと、僕は最前車両の扉にもたれかかっていた。 「あれ?」 「もうこの電車、車庫に入れてしまうので、降りてもらえますか?」 「ああ……、すみません」 「肩を貸しましょうか?」 「お願いできますか?」 「分りました。じゃあ、どうぞ」  車掌の肩を借りて、開いた乗車口まで歩いていくと、そこには闇がぽっかりと口を開けていた。 「あの……」  無理矢理押されて、車外に放り出された。  横から、地下には似合わない二つの真昼の太陽が迫ってくるのが見えて、目を閉じた。  定期的に枕木を鳴らすその二つの太陽をつけた電車が、僕に向かって警笛を鳴らした。  その音が何かに似ていると思った。  ああ、あの電車の中で聞いた僕と芽衣子との赤ん坊の声だっけ。  それに気付いたのは、僕の頭だけが枕木に横たわった時だった。
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