黄橡の追憶

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   自分の中にある、一番古い記憶は何だろう――    柔らかな日差しに温められた縁側、その真ん中に置かれた座布団の上で、そんなことを考えながら私は目を細めた。  いつの間に下校時間を過ぎたのか、庭を囲む塀の向こうから子供たちの笑い声が聞こえてくる。  そろそろ、この家のやんちゃ坊主も帰ってくるかもしれない。 「ただいま!」  まるで計ったようなタイミングで、門扉の開く音がする。声の主はまだ姿を見せないけれど、その弾んだ声に、どんな表情を浮かべているのかは容易に想像できた。 「小雪ちゃん!」  庭に駆け込んできた少年は、予想通りに目を輝かせている。半ば放り投げるようにランドセルを置くと、私の顔を覗き込んで笑った。 「ただいま、小雪ちゃん」 「おかえり、トオル」 「今日ね、音読のテストだったの。上手だねって、先生に褒められたんだよ」 「良かったわね」 「今日の宿題も音読なの。小雪ちゃん、聞いててくれる?」 「ええ、もちろん」  今年の春から小学校に通い始めたトオルは、学校生活が楽しくて仕方がないらしい。  毎日、帰宅するなり私の傍へ来て、先生がどうしたとか友達がどうしたなんて、ほんの些細なことさえもすべて聞かせようと話してくる。  正直、まだあどけなさの残る子どもの話をじっと聞き続けるのは、楽なことではなかった。一度聞いた話を何度も聞かされることもあれば、話を組み立てながら喋るせいで要領を得ないことも多い。  けれど―― 「宿題が終わったら、一緒に遊ぼうね」  そう言って満面の笑みを向けてくれるこの少年が、私にはとても大切な存在だった。 「いいけど……たまには、学校の友達と遊んだら?」 「……」  私の問いかけに、トオルは答えない。  誰かと、喧嘩でもしたのだろうか?  いや……いっそ喧嘩のほうが、まだいいのかもしれない。 「また、誰かにからかわれたの?」  ――やっぱり、返事はなかった。  私は小さく息をついて、ランドセルから教科書を取り出すトオルを見やる。  どちらかといえば可愛らしい顔立ちをしている彼は、同年代の男子に比べて幾分か声が高い。幼稚園に通っている頃は本人も周りも気にしなかったけれど、小学校という新しい社会では、それは嘲笑の対象になるようだった。  音読で褒められたとも言っていたし、それをやっかんだ誰かが、心無い言葉を投げつけたのかもしれない。 「……私は好きよ、トオルの声」  今度は、本人に聞こえないように呟く。  国語の教科書を手にしたトオルは、どこか澄ました顔で微笑んだ。そのまま目的のページを広げて、大げさなほどに息を吸い込む。 「青い空、白い雲、もみじの葉っぱは赤色だ――」  音読に耳を傾けていると、ふと「赤色」という単語に意識が引っ掛かる。  赤。  火、紅葉、夕焼け空、そして……血の色。  赤い色は人の目を引く色だと、ずいぶん前にテレビで見た。「だから、血は赤いのだ」と言ったのは、誰だっただろうか。  血を流し続ければ、生物は死ぬ。  だからこそ人は赤い色に敏感で、怪我をすれば急いで手当てをする。生存本能に則った行動だというけれど、その感覚が私にはよく分からなかった。 「ねぇ、トオル……赤って、どんな色?」  三度目の問いかけにも、やっぱり返事はなかった。顔を上げれば、トオルはまだ音読に夢中だ。  宿題の邪魔をするわけにもいかないと思い直した私は、まだ幼さの残る心地良い声に耳を傾けながら、ゆっくりと目を閉じた。      × × ×  
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