黄橡の追憶

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  「……小雪ちゃん?」  名前を呼ばれて、我に返る。目を開けると、トオルの心配そうな顔が間近にあった。 「音読、終わったよ?」 「ごめんね、少しうたた寝しちゃったみたい」 「眠いの?」 「平気よ」  トオルの頬に、鼻先を寄せる。くすぐったそうに目を細める表情は、記憶の中の微笑みとそっくりだった。 「トオル、また縁側から上がったの?」  ふいに、廊下の奥から呆れたような声が聞こえる。  振り返ると、大きなお腹に手を添えながら歩くミサコの姿があった。 「ママ、ただいま!」 「はい、おかえり。できれば、その言葉は玄関で聞きたかったけどね」  苦笑交じりに告げる母親を気にも留めず、トオルはいそいそと国語の教科書をランドセルにしまう。 「今ね、宿題が終わったところ! 小雪ちゃんに音読聞いてもらったの」 「あら、そうなの? 小雪ちゃん、トオルはちゃんと読めてた?」  わざとおどけたような顔で、ミサコが私の耳元に顔を寄せる。その芝居じみた口調に思わず笑いかけたけれど、私たちを見つめるトオルの真剣な眼差しに、私はただ目を細めた。 「大丈夫よ、ちゃんと上手に読めてたわ」 「ふんふん……なるほど」 「ちゃんと読んだよ! 小雪ちゃんは、途中で寝てたけど」 「トオル、余計なこと言わないの」 「そうなの? じゃあ、よっぽどトオルの声が心地よかったんじゃない?」  そう言って、ミサコは私に柔らかな視線を向ける。 「ええ、そうね」 「さ、宿題が終わったなら、トオルは明日の準備してね」  再び大きなお腹に手を添えて、ミサコが「よっこいせ」と立ち上がる。  私も身を起こすと、察したようにミサコは私に微笑んだ。 「大丈夫よ、小雪ちゃん。病気じゃないんだから」 「そうだけど……」  出産予定日まで、あと一カ月――  分かっていても、つい身体が動いてしまう。  余計なことをしてしまったかと思っていると、ミサコはくすぐったそうな笑みを浮かべて眉尻を下げた。 「心配してくれてありがとう」  嬉しそうに細められた眼差しに、嘘は見えなかったから。  私は、落ち込みかけた自分の心をうまく隠して笑ってみせた。 「どういたしまして」 「ねぇ小雪ちゃん、一緒にお絵描きしよう!」  いつの間に明日の用意を済ませたのか、トオルがスケッチブックとクレヨンを手に寝転がった。 「トオル……私、絵は苦手なんだけど」 「小雪ちゃんは、何色が好き?」  目的のクレヨンを手に取って、トオルは残りのケースを私の前へと押しやった。  仕方なく視線を下ろすと、二十本のクレヨンが整然と並んでいる。それぞれ色の濃さに違いはあれど、私には四色程度しか識別することができなかった。 「僕はね、赤が好き」 「……そう」 「小雪ちゃんのリボンと、おんなじ色だね!」  無邪気に笑うトオルの言葉に、私は何も返すことができなくて――  小さな手に握られた「赤色のクレヨン」を、ただ見つめることしかできなかった。      × × ×
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