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永遠の夏休み
「やあ、僕だよ」
「ああ、君か」
「寝てたかい?」
「いや。横になって空を見上げていた」
「暑いね。もうすぐお盆だ」
「この気候に、ちょうど故郷を想っていたところだ」
「実は今日はキミに話があって来た。昨日、僕のところにも赤紙が来た」
「そうか…… 嘆かわしい。ついに来たるべき日が来てしまったのか」
「あ、ごめんよ、本当にごめん。そんな目で見ないでくれ。エサの時間じゃないんだ。悪いけど、食べるものは何も持ってない。日本中が腹を減らしてるんだ、キミに与えられるものはもう、リンゴのヘタ一つないんだよ」
「今さらそんなものは求めてないさ。私はただ、君の行く末を案じているだけだ」
「ごめん…… ごめん。キミたちをこのまま置いて行くことになるなんて、身を引きちぎられる思いだ」
「分かっているさ、君はいつだって私たちに親切だった。その目の上のアザだって、こっそり私のために食糧を持ち出したのがバレたのだろう?」
「そんなに痩せてしまって…… どう詫びればいい?」
「今さら何を言う。そもそも何一つ君のせいではない」
「人間は身勝手だ。母親を密猟で亡くし、群れからはぐれて瀕死のキミを、別の密猟者が捕まえた。何人もの手を渡り、キミは日本へ連れて来られたんだ。そして僕たちは金でキミの命の所有権を買った」
「恨んではないさ。万物をくだらない金貨で支配する、それがヒトというやつだ」
「戦争が始まって、爆弾で動物園の檻が破壊されることを政府は恐れた。最初に猛獣たちの処分命令が出た。国内から食べ物が消えて、面倒を見切れなくなった他の動物たちの処分が始まった。当初キミたちに打ち込むはずだった弾薬は、全部兵隊が戦場へ持って行ってしまった。もう一発もないんだ、信じられるかい? 大本営は僕たちの家にある鍋まで回収して回ってるんだぜ。ハンっ、ばかばかしい話しだろ」
「もういい、みなまで言うな。君の涙を見るのはこれで二度目だ。一度目は処分が始まったとき、君は園内の檻の前を走り回って、蹴られても殴られても諦めず、私たちの命乞いをしていた」
「それに、毒だって…… 。キミたちは頭がいいから、毒入りのジャガイモをすぐに吐き出してしまったね。皮膚が分厚いから、注射すらできなかった。それで……」
「ああ、わかっているさ。我々は陸上で一番巨大な生物だ。ちっぽけな君たちがどれほど処分に手こずるかなど、容易に見当がつく」
「ああ、太郎。餓死を待つなんて、腹を減らせて殺すなんてあんまりだ。僕の体でいいのなら、喜んでキミのエサになるのに……」
「よしてくれ、我々は肉など口にしない。それよりも、最後に少し話そうじゃないか。そうだ、君はなぜ我々がヒトから愛されるかを知っているか」
「ごめんよ、太郎。僕は自分が人間であることを恥じる」
「頼むから、間違っても変な気は起こさないで欲しい。知っているだろう、我々は記憶力がすこぶる良いのだ。君にもしものことがあれば、来世まで忘れることができぬ。私は一度親切にしてくれた者への恩を決して忘れない。誰かを憎むこともない。そんな心を持っているからこそ、我々は君たちに寛容な生き物として愛されるのだろう」
「聞くところによると、昨日また長崎に新型爆弾が落とされたらしい。広島のと同じやつだ。たった一個の小さな爆弾が、巨大な人類都市を丸ごと一つ破壊した。信じられないほどたくさんの人が一瞬で殺された。死んだのは戦争を始めた人たちじゃない。武器を持たない普通の人たちだ。無抵抗の市民の殺戮…… こんなの間違ってる。もう人間はこりごりだ。生まれ変わったら、僕はゾウになりたい」
「君がゾウに? もったいない、止めておけ。私は君の努力を知っている。貧しい家庭に生まれ、逆境に折れず必死に学問を追い続けたその生き方は、決して無駄などではなかった。もし君が獣医師でなく科学者だったなら、力をそんな野蛮な爆弾開発なんぞに使わなかったはずだ。君は利口だ。その証拠に、若い君が、この国がこれほどぼろぼろになった今まで兵隊に取られなかったのは、優秀な学生を戦地へやらぬ特別な制度に守られたからだろう?」
「太郎、キミたちの世界ではメスが大切に扱われているね。群れの中では必ずメスが中心で子を育てる。僕たちはどうだい? 男が威張り散らした結果が、この有り様さ」
「すまないが、私は群れのことをほとんど覚えていないのだ」
「キミたちはとても社交的で、共に支え合いながら暮らしているね。環境の変化に順応するのが得意で、どんなに厳しい環境下でも頭を使って乗り越えてしまうんだ。強い日差しから皮膚を守るために体中に泥を塗ったり、天然のハーブを食べて出産時期を早めることすらやってみせる。それなのに僕たちは、同種族同士で奪い合って殺し合う」
「それがヒトというやつさ」
「個々でいるより群れでいる方が野生での暮らしに適していると理解して、問題に直面したとき、キミたちはいつもみんなで協力して乗り越えるんだ。それに、大きく複雑な脳のおかげで、訓練すればなんでもすぐに覚えてしまうね。鼻で筆を持って器用に絵を描くキミの姿を初めて見たときは本当に驚いた。さて、僕らはどうだい? 幼少の頃から長年かけて小さな脳に詰め込んだのは、一体なんのための学問だい? 世界史を何度学んでも、僕たちは目先の問題に直面すると過去を全て忘れてしまうんだ。何度でも殺し合う」
「なあ、そろそろやめないか」
「キミたちは責任を持って子を育て上げる。ときには群れから見放された他のグループの子の面倒を見ることさえあるんだってね。高いコミュニケーション能力で、お互いの匂いや味、肌触りを伝ってコミュニケーションをとる。仲間が遠くにいるときは、お互いにだけ聞こえる音を使ってやり取りする。それに引き換え僕たちは…… トラトラトラ。敵の赤ん坊まで皆殺しにするために、秘密の暗号を作るんだ」
「やめないか」
「行動の中でわざと植物の種をまき散らしたり、古くなった木を壊して新しい森林作りに貢献しているね。キミたちは環境の保全にも一役買っているのに、僕たちは、海も山も破壊するばかり。生きている人間に、僕に、いったいなんの価値があるんだろう……」
「もうやめろ、やめてくれ。強くて弱く、聡明で愚かな生き物よ。そう思えばこそ、君は今後もヒトの理想の社会を追い求めるが良い。この戦争を生き抜けよ。果てにあるのは、極楽か地獄か。君が責任を持ってこの戦争の最後を見、世界の50年後をその目でしかと確かめるのだ」
「僕はキミが心底羨ましい。自然の摂理に逆らわず、他者を殺さず、最期まで生物としての誇りを持って死ねるキミが」
「私はただ、ここでの生活に身を委ねていただけだ。それももう、この足で立ちあがる力さえなくなってしまった。思えばつまらない一生だった。幼き頃に母を亡くし、故郷のことはほとんど覚えていない。固い鞭を打たれ、追い立てられる先はいつも暗く冷たい空間だった。どこまで歩いてもそこは檻の中で、腐りかけの果物と朝露をすすってどうにか命を繋いだ。どこかへ到着する度に乗せ換えられたのは、死臭と汚物のこびりついた暗く狭い箱の中だった。世界はこんなふうにできているのだと思い始めた頃、私は君と出会った。私の脳裏にある唯一の良き記憶は、抜けるように青いサバンナの夏空だけだ。君の笑顔は私にそれを彷彿させた。いつだったか、君がアフリカという国のことを話して聞かせてくれた。灼熱の太陽、君たちとは違う肌の色をした人間たち、陽気な音楽。私はそれを、孤独な夜の象舍で何度も何度も想像したのだよ」
「結局、僕たちなんて滅びゆくべきなんだ。地球という星に人間は要らない」
「愛する青年よ、そんなことは言わないでくれ。下を向くな、顔を上げて私を見ろ。二度と私のような者を出さぬよう、君は現実に立ち向かわなくてはならない。もう私は…… いや、なんでもない。どうやら無駄話はここまでのようだ」
「あぁ太郎、待って、目を伏せてしまわないで。僕も一緒に連れてってくれ。ごめん、本当にごめん、ごめんなさい」
「そんなに腰を深く折って、頭を下げて。君は日本の国全てを一人で背負って謝ってくれるのか。世界中を敵に回して、そのちっぽけな体で我々を守ろうとした。そんなに骨を軋ませて、もう泣くな、心優しき青年よ。進め、愚かで愛すべき人間たちよ。私は一足先に行って待つ。願わくば、君との再会はずっと後が良い」
「おやすみなさい太郎、ごめんよ……」
「どうか、死にゆくなどとは思わないでほしい。そうだ、こう思ってはくれまいか。私の魂は長い夏休みを取るのだと。これより私は、いつだか君が話して聞かせてくれたアフリカへ帰るのだ。朧げに覚えている、あのはじけるような陽光の降り注ぐサバンナの夏空の下で、心ゆくまで人生を謳歌する私を見ていて欲しい」
「ちくしょう、もうなにも見えないや。暑いね、もうすぐお盆だよ、太郎」
了
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