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「辛い」
まさかの、エスニック料理。
立原の地味な印象から、しっとりした飲み屋かと思っていたら、連れて来られたのは派手なオレンジ色の店構えのタイ料理店。
何を頼んでもだいたい辛いですよ、と言われて試しにいくつかオーダーしてみたら、たしかに何を食べても辛かった。
普段はちびちび飲む甘めのカクテルを、ぐいぐい飲んでしまう。
「お酒はほどほどに。コーラでも飲んでいてくださいよ。年下の女性を潰すつもりはありません」
あくまで紳士的に距離を置いた立原に、控えめながらもしっかり注意された。
葉月は少しばつの悪い思いで、豚肉の炒めものをつつく。
「辛いです」
「パットキーマオ。唐辛子炒めです。ドリンクどうします。コーラ? オレンジジュース?」
「カシスオレンジで」
メニューを手にしていた立原が、眼鏡の奥から視線をくれる。
「それで最後にしてくださいね。飲みたい気分なのかもしれませんけど、相手は選びましょう。上司として悩みがあるなら聞くのもやぶさかではないですし、家がこの近くなら送っていくのも構いませんけど、会社の人間と個人的に付き合うのは苦痛ではないですか」
葉月はすでに若干酔っていた。
普段なら自制がきくところだったが、いまだに受け止め兼ねている先程の事件のせいで、ついこぼしてしまう。
「本当にそうです。会社の人が帰ったら家にいるなんて、かなり最悪の部類だと思います」
のんびりとジンジャーエールに口をつけていた立原は、グラスをテーブルに戻しながら言った。
「笹原さんとルームシェアしていませんでしたっけ。入社一年で社員寮廃止になって、この春から」
「あー……、ご存知でしたか。べつに会社のひとでも美沙緒、ええと笹原さんが家にいることは良いんですけど」
(危ない)
口がすべりかけた。家に美沙緒の上司である冴島がいた、と。
現場を押さえてしまった以上「不倫」であるのは動かしがたい事実だと思うのだが、さすがに他人には言えない。特に、立原は社内の人間だ。
(私にバレても構わない、っていうあの二人の態度はいただけないけど、美沙緒とは友達だし……。本人の言い分も聞いていないのにべらべらと吹聴するわけには)
なぜ自分の方が圧倒的に気を使わせられているのかは、腑に落ちていないのだが。ひとまず。
それを見透かしたかのように、立原にさらりと言われてしまった。
「冴島?」
手持ち無沙汰で空のグラスを手にしていたが、取り落とすところであった。立原は通りすがりの店員に、追加のカシスオレンジとジンジャーエールを注文する。
それから、深く椅子に座り直して言った。
「ここ、もともと社員寮があったくらいで、会社まで電車で一本だから便利なんですよね。それで、入社三年くらいして社員寮を出た社員もそのままこの駅近くに部屋借りて結構住んでて。俺はもとから家がここにあるんですが。コンビニとかスーパーで会社の人間に会うこと結構あるし、注意していないとどこで見られているかわかったものじゃないです。冴島は結婚して、いまは家は全然べつのはずなのに、最近この路線や駅で何回か見かけていて……。笹原さんとのことは、状況証拠からの推測。あと、今日の大滝さんの不審な行動。会社にいたときと靴が違うから、一度家に帰ったんだと思いますが。いつまでもウロウロしているし『時間を潰す』って。家にいられない事情でもあるのかなと。それで、少々お節介を」
一切の淀みなく言われて、葉月は弱々しく笑った。
(びっくりしたけど、社内的には結構前から知られていた話なのかな、不倫。私、鈍いから……)
入店してから、さりげなくずっとテーブルの隅にスマホを置いているのだが、やはり連絡はない。言い訳するつもりはないのか、必要がないと考えているのか、引き続き二人の時間を過ごしているのか。
滅入る。帰って良いのかどうかもわからない。自分の家なのに。
「笹原さん、冴島さんをうちに何度か連れ込んでいたみたいで……。今日も。もう信頼関係もないですし、一緒に暮らせないと思うんですけど、引越し費用どうしたらいいのか、悩み中です」
「ルームメイトの約束反故、有責ということで、慰謝料を請求してみては?」
「できたら良いですけど、同じ会社の二年目社員同士、給料事情はわかります。しかも不倫がバレたら、奥さんからの慰謝料もあるんじゃないでしょうか。本当に、なんで不倫なんか……」
「冴島のところ、たしかいま奥さん妊娠中です。だからじゃないですか」
さらりと言われて、葉月はテーブルに届いたカシスオレンジを一息に飲み干した。
「最低ですね」
「俺に言われても」
「男は最低です」
「大きな声で言わない」
「男は!! 最低です!! 完全にもうそれはただの性欲処理じゃないですか!!」
「大滝さん……」
困りきった顔の立原相手に、さんざん管を巻いた覚えはある。
店を出るときにはもともと酒に弱かったせいもあり、すっかり酔いがまわっていた。
家に送ります、と立原が言っているのは気づいていたが「家などありません」と突っぱねて、帰らないとごねまくった。
帰れない事情は立原もよくわかっているだけに、結局折れた。「うち、部屋余しているので、ひとまず今晩だけどうぞ」と。
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