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 最近、気になるひとができた。  毎朝、お気に入りのカフェで、私はモーニングAセットをいただく。  サーモンの挟まったサンドに、香り高いコーヒー。  そんないつものメニューに舌鼓を打ちながら、私はちらりと斜め前に座る男性をうかがう。  正直、これといって特徴のない男性だ。町ですれ違ったら、一分後には忘れてしまうような。背は高すぎず低すぎず。太っても痩せすぎてもいない。少し目つきが鋭いのが、特徴といえば特徴か。よく見れば、整った顔をしているかもしれない。でも、そのぐらいだ。それなのに、どうして私は彼を覚えて、意識までしているのか。答えは簡単。彼も、私と同じでこのカフェの常連だからだ。それも、来る時間がかぶる。大体、午前八時前後に、私も彼もこのカフェに入る。  あんなに印象の薄いひとなのに、気になってしまうのは、時折視線を感じるからだ。  文庫本を広げて、読みかけの物語に入りかけた時、また視線を感じてちらりと彼の方を見やる。  彼はタブレットパソコンを眺めているところで、私に目なんて向けてなかった。  でも、さっきまで私を見ていたのだと、確信している。  にじむ笑みをこらえて、私はまた本に目を落とした。  今日はこれから、何をしようか。特に予定は入れていない。  なんとなく、今日は図書館に行きたい気分だった。本をいくつか返却して、図書館に併設されているカフェで、くつろいで、それからめぼしい本を借りて帰ろう。うん、それがいい。  予定を決めて、私はぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。  平日の午前というのは、どの道も空いていていい。  ふんふん、と鼻歌を歌いそうになりながら、私は軽やかな足取りで進む。  視線を感じた気がして振り向いたが、誰もいなかった。  図書館に着いて、読んでしまった本を返却する。そうして、私はひともまばらな本棚へと向かった。  私は適当に惹かれるタイトルの本を手に取っていった。  併設されたカフェへと向かい、私はふたり席に座ることにした。椅子に荷物を置いた後、自販機へと足を向ける。カフェといっても、自販機とテーブル席があるだけの、簡素なカフェだった。図書館併設のものだから、贅沢は言えない。  カップの、ホットコーヒーを買って、私は席に戻った。いざ本を広げて、周りを見渡す。私以外には、若いお母さんと子供がいるだけだった。  男の子は三歳ぐらいだろうか。騒がず、絵本に没頭しているし、お母さんは子供を優しく見守って、缶ジュースを飲んでいる。平和そのものな光景に目を細めて、私はコーヒーを口に含んだ。  お昼ごはんは、何を食べよう。パスタかな。ううん、たまにはラーメンもいい。平日なら、お昼時を外せば空いているだろう。  予定を考えながら、「すべきこと」がない日々の有難みを実感する。  私は少し前まで、祖母の介護で忙しかった。今の日々は久方ぶりに訪れた「お休み」のようなものだ。  祖母は私の恩人で、大切なひとだったけれど、それでも介護というのは大変だった。通いのヘルパーさんもいたし、恵まれていた方なんだろうけど。  私は本を読み始めるつもりが、子供がにこにこ笑ってお母さんを見上げる光景に、釘付けになってしまった。  お母さん、か。私にも、あんな時期があったのかな。……ううん、ないか。  私の母は、駆け落ち同然で父と一緒になったひとだったそうだ。  父は、典型的な悪い男だったという。お嬢様育ちでアルバイトもしたことがない母に、水商売をさせて稼がせた。父はろくに働きもせず、浮気をしたり、借金をこしらえたりと、やりたい放題だったらしい。それでも、母は父と別れなかった。  そうして、そんなふたりの間に生まれた私は――育児放棄を、された。  いつまでも帰って来ない母を思って、いつのかわからないおにぎりをかじったっけ。あの、何とも言えない味を思い出すと、今でも涙がにじむ。  そんなある日、いつも通りお留守番をしていた私を、迎えにきてくれたひとがいた。父でもなく、母でもなく、祖母だった。あれは私が五歳ぐらいのことだった。  おろおろする大家さんを、背後に従えて。祖母は怒ったような、泣きそうな顔で、私を見下ろした。  祖母は、汚れきった私の体を引き寄せ、抱き締めた。  かわいそうに、かわいそうに、と涙まじりに何度も繰り返す。私も、自然に涙が出ていたっけ。 「私は、あんたのおばあちゃんだよ。ろくでもない娘で、すまなかったね。もう、安心だよ。あんたは私が引き取るからね」  早口でまくしたてられて、私はすぐには理解できなかった。でも、もうこうしてずっと留守番しなくていいのだとわかって、声をあげて泣いたのだった。
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