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◆第三章 【邂逅】 波浪◆
凪砂にそう紹介された少年は「初めまして」と小さく頭を下げた。
その少年はおそらく人間ではない。
直感的にそう感じた。
私はきっと怖かった。この瞬間が来ることがずっと前から怖かった。
私はどう反応していいのか分からず、少し呆然とした。私は名乗った後で、彼に近づき右手を差し出した。彼の正体を確かめる意味も込めて、手を差し出した。
彼は少し戸惑ったように見えたが、私の手をとると「よろしく」と微笑んだ。
彼の手は想像したよりも厚くて暖かかった。人間離れした何かを感じたが、触れた手は、彼が人間だと告げていた。
「ハロー、ハロちゃん。久しぶりだな」
閉じかけた心に光が射すような声が玄関に響いた。
「なに三人で突っ立ってんだ?」
毅は靴を脱ぐと、私たちを置き去りに、さっさとリビングに向かった。
「二人の顔合わせしてたんだよ。ミーティング、早く終わったのか?」
「プリント配られて終わりだったから、先輩と一緒に帰ってきた。久しぶりに対戦しようぜ。テレビ画面でゲームすんの、すごい久しぶりだわ。あ、飲み物冷蔵庫入れとくぞ」
毅があまりにも通常運転だったので、私は少し気が抜けた。凪砂のクラスメイトは、当然ながら毅のクラスメイトなのである。その事実を今まで思い出せなかった。
「ゲームのとこ整理したんだから、あんまり散らかすなよ」
凪砂はそういって、リビングへ続いた。
「桂城くんもどうぞ」
「そうだよ、桂城くんもどうぞ」
すでにリビングにいる毅は、私の言葉を反芻した。
「俺たちはサクとか朔馬とか、適当に呼んでる」
凪砂はいった。
「適当に呼んでくれていいよ」
「私のことも、適当にどうぞ」
私がいうと、再び彼はふわっと笑った。
その笑顔があまりにも無垢で、私は少し驚いた。
だからこそ、彼はやはり人間ではないのかも知れないと思った。
◇
私と凪砂の間には「毅以外の友人は家に呼ばない」という暗黙の了解があった。
友人とは、結局のところ互いの同級生なので、単純に居心地が悪いのである。そのため凪砂の友人が家にいるのは、それなりに新鮮である。
ゲームに興じる三人の背中を見つめながら、私は編み物を開始した。
私のリビングでの定位置は、テレビの正面に位置するのソファーである。テレビとソファーはそれなりに離れており、その間には座卓が置かれている。彼らは現在、テレビと座卓の間に和座椅子を置いてゲームをしている。私の両脇には同じソファーがあるが、ゲームをするには適していないようである。
私にはゲームの才能が皆無で、幼い頃からゲームに参加させてもらうことは少なかった。しかしゲームをしている時の、頭をほとんど使っていない彼らの会話を聞くのは好きだった。
三人はしばらく無言でゲームに集中していたが、場面が切り替わる大きく息を吐いた。
「久しぶりにやると全然ダメだな」
「俺も高校生になってからは、ほとんどやってない」
「サクは分かりやすく初心者だけど、頑張れば上手くなると思うわ」
「なに目線なんだよ」
「ハロは今なに作ってんの?」
毅は私の方を振り返った。
「夏用のコースター作ってる」
「伊咲屋用?」
「できが良ければ、そうなると思う」
「生産性のある趣味だよな。しかしサクがこの家に住むと思うと、改めて変な感じだな」
「お前の話は本当に脈絡がないな」
凪砂はいつもより低い声でいった。ゲームをしている最中はいつもこうである。そしてほどなく三人は、再びゲームの世界へ戻っていった。
「学校でもいったけど、失礼なことをしないか不安だ」
朔馬はテレビ画面を見つめながら、ぽつりといった。
「靴を脱いで家に上がれば、なにをしても大丈夫だぞ。足が汚れてる時は、玄関先にあった水道で足を洗って家に入ってくれ」
毅はいった。
「何しても大丈夫っていわれると、否定したくなるからやめろ。なんだろ? とりあえず誰かに何かもらったら、親に報告するとか?」
「あー、親同士でお礼いったりするしな。そういうのより、風呂とか、メシ時間教えてやったら?」
凪砂は「あ、そうか」と、素直に従った。
「風呂の時間は特に決まってない。朝でも夜でも、好きな時にどうぞ」
「この家は鍵かけない限り、風呂もトイレも勝手に入ってくるから気をつけろよ」
「普通だろ。で、夕飯は七時台かな。そのくらいになると、ハロと伊咲屋にいって、夕飯の重箱をもらってくる」
「忙しそうだな。将棋のタイトル戦も近いんだっけ?」
「タイトル戦は来月かな」
「挑戦者は高校生棋士だろ? 同じ高校生でも、ずいぶん差がついたもんだな」
「別に俺たちと比べる必要はないだろ」
「ハリウッド女優みたいなこといってくれるな」
「あ、そうだ。朝は八時少し前の電車に乗るから、朝の準備はそのつもりで頼む。ちなみにハロは、俺より一本早い電車で通学してる」
「え、なんで? 反抗期?」
毅はこちらを振り返った。
「一本前だと、確実に座れるから」
毅は「ハロはそういうとこあるよな」と呟いた。
「とりあえず家のことは、その都度誰かに聞いてくれたらいいよ」
「うん、ありがとう」
朔馬は素直に礼をいった。
◆
毅は帰る際に「送ってくれ」といった。
凪砂は間髪入れずに「ふざけるな」と返したが、私は毅を送っていくことにした。凪砂はその間に朔馬に家の色々を案内しておくと、私に告げた。
毅が凪砂らと手を振り合うと、私たちは歩き出した。毅の家は近所ではあるが、田舎の感覚での「近所」なので、歩くには少し時間がかかる。そのため毅は私の自転車を押して歩いてくれていた。
「高校はどうだよ? 女子部っていい匂いしそう」
「楽しいよ。透子も同じクラスだし」
「そういや、そんなこといってたな」
透子が「いつも以上に人の話聞かない」と憤っていたことを思い出した。毅は部活と勉強の両立で大変なのだろうとは思うが、彼女もそれを理解した上で憤っているのだろうと思うと、切ないものである。
毅と透子は付き合って数年になるが、ケンカをする度に別れたりしている。しかし一週間としないうちに、元に戻っているのが常である。
私と毅は会話らしいものはなく、ただぼんやりと歩いた。毅の家は、駅とは逆方向に位置する。そのため、毅の家へ向かう道を歩くのは久しぶりであった。
毅の祖母が生きていた頃は、よくこの道を歩いていた。
北川家は医師の家系であり、彼の祖母も例外ではなかった。彼女は家の近くに小さな産婦人科医院を構えていた。しかし彼女が脳梗塞で倒れてからは、その医院は畳むことになり、それ以降医院の駐車場は私たちの遊び場となった。
彼女は車椅子で生活していたが、私たちが外で遊んでいると決まって顔を出してくれた。彼女はいつも、私たちと対等に話してくれた。そういう扱いを受けるのは嬉しかった。
毅と凪砂が地べたに座り、ゲームに熱中している間、彼女は私に編み物を教えてくれた。さらに彼女はこの土地にまつわる話や、妖怪の話をしてくれた。その深く響く声は今も鮮明に思い出せる。
私はそんな彼女が好きだった。
「朝、まだ走ってんの?」
毅はぽつりといった。毅は毎朝浜辺を走ることを日課としており、私もそれに付き合っていた。
「走ってるよ」
「無理に俺に付き合ってたわけじゃないんだな」
私は「そうだよ」と小さく笑った。
「サクのこと、拒否権があったら発動してた?」
彼と顔を合わせてしまった今、不安がないといえば嘘になる。しかし凪砂の友人が我が家に住むと決まった際は、特に不安がなかった。
「凪砂と仲がいいなら、いいかなって思った」
私がいうと、毅は肩で息を吐いた。
「サク本人がいってたけど、日本文化には疎いな。一ヶ月一緒にいたけど、嫌なヤツじゃないし、誰かを不快にすることはないと思う」
私はこういう話を聞きたくて、毅と二人になったのかも知れなかった。そして毅は、それを理解していたのかも知れなかった。
「毅がいうなら、安心かな」
「時々擦り傷とか作ってたけど、あれはケンカとか、自傷ではないな。ドジッ子属性かもな」
「ドジッ子……」
私は毅の言葉を反芻した。
「ネギがサクのこと必要以上に話してないとしたら、ネギはハロに甘えてんだろ。ハロならなんでもわかってくれるって、今も思い込んでんだよ」
「そうかな」
「そうだろ、昔から」
毅と手を振り合うと、私は自転車に乗って西弥生神社へ向かった。
私と凪砂は会話も多いし、姉弟としては仲がいい方だとは思う。
しかしいつからか、はっきりと線が引かれるようになった。それがいつからだったのか、私はもう覚えていない。しかし凪砂はきっと覚えている。それがなんとなく悲しい。
「害妖ではないだろうな」
建辰坊はきっぱりといった。
「そうなの?」
「お前に教えている呪術は、大抵が魔除けの類だ。数日前、手のひらに呪陣(じゅじん)を書いただろう?」
普段なら呪陣は地面に書いているが、先日はお守り代わりにと、手のひらに指で呪陣を書いたのだった。
「あの呪陣は、少なくとも十日は有効だ。そいつが害妖なら、手に触れた瞬間に反応を示すはずだ」
私が手のひらを睨んでいると、建辰坊は「妖怪でないなら、神の類かも知れぬがな」といった。
そちらの方が現実離れしているように思えたが、否定できるほどの要素はなかった。
「そいつが何者であれ、仲良くやれたらそれでいいだろう」
建辰坊の言葉に、私は「はい」と頷いた。
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