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◆第八章【幼い背中】 凪砂◆
学校を休んだ翌日も、朔馬は体調が悪そうだった。
しかし朔馬は「今日は学校にいける」といった。もう一日休むことを提案してみたが、やんわり却下された。
「そういえば昨日の夜、光凛が来たよ。光凛か? って聞いたら、そうだっていった」
「やっぱり連絡役は光凛だったか。国外の連絡が可能なのは、陰陽師くらいだからなぁ」
僕は「へぇ」といいながら、巫女姿の光凛を思い出していた。
「光凛に何かいわれた?」
「妖怪かと思ったって」
「人型の人外は、それほどめずらしくないんだよ」
朔馬は驚くことなくいった。
学校にいる間はいつも通りに見えたが、朔馬は夕食を終えると「少し寝ます」と自室に戻った。
僕は勉強しようと自室へ向かったが、本棚につっこんだ妖術書が目に入った。もしかしたら消えているかも知れないと思っていたが、それはちゃんと存在した。
朔馬に妖術書の話をするべきか、少々迷った。しかし朔馬が本調子でない今、なにもかも彼を頼りにするのは憚(はばか)られた。
――今よりは朔馬の役に立つだろう
朔馬には迷惑をかけてばかりである。そのせいもあって、朔馬の役に立ちたいという気持ちは、僕の中に強く存在する。
妖術書を手にしてみると、それは見た目以上に使い古されたものであった。僕はネノシマの何を知るでもないが、朔馬や光凛の努力の片鱗をそこに見た気がした。
妖術書は日本語で書かれており、自分にも少しは理解できるかも知れないと思わされた。そう思ってしまうと、頁をめくる手を止めることができなかった。軽く目を通すつもりであったが、僕は時間を忘れて妖術書を読み進めた。
「おい!」
どれほど集中していたのか、少なからず僕はその声に驚いた。
「なんだよ。朔馬は療養中だよ」
僕の声は自分が思う以上に不機嫌であった。
「わかっている。日に一度、連絡が取れるかを確認しているだけだ。ハチワレ石で連絡を取れるようになるのに、二ヶ月もかかったのだからな」
光凛は再び僕の前に、猫の姿で現れた。
「今日は猫なのか」
「こっちの方が疲れない」
「そうだった」
「妖術書を読んでいるのか、感心だな」
「うん。面白い」
「面白いか? 私はそう思ったことは、一度もない」
強制される勉強ならば、僕もそう思っただろう。僕が今のところ妖術書を楽しめて読めているのは、その行為が自主的なものだからである。
なにより朔馬の影響だろう。
鵺を倒した時の朔馬は、僕の目に強く焼きついている。畏れが入り混じった、憧れに似た感情を覚えた。僕が妖術書を読むには、充分な理由であった。
実現可能な目標を前に、立ち止まるという選択肢は僕にはなかった。
「もうそんなに読んだのか」
猫の姿をした光凛は、僕の手元を覗き込んだ。僕は妖術書の三分の二程度を読んだところであった。高校に入ってから、勉強することにはだいぶ慣れたように思う。それでも知識が頭に入っていく感覚が久しぶりに心地よかった。
「読んでるだけだよ。理解してるとは言い難い」
「私は一読するのに、何日もかかった」
「何歳から読み始めたんだ?」
「初めてそれに触れたのは、九つくらいだな」
「九歳? 漢字も多いし、その年齢だと難しいだろ?」
「だから何年もかけて理解する。妖術書とはそういうものだ」
「光凛は、肢刀を出せるんだよな? 何歳くらいから出せるようになったんだ? というか、光凛は何歳なんだ」
「今は十五だ。抜刀したのは十三の時だ」
「十三か」
――ネノシマにおいても、肢刀を出せるのはごく一部だよ
僕が思う以上に、朔馬も光凛も優秀な人間なのだろう。
光凛は猫の姿で伸びをして、その場に丸くなった。僕はその姿を横目に、妖術書を読み進めた。
気付くと光凛はいなくなっており、時計を見るとすでに就寝時間を過ぎていた。一通り妖術書は読み終えたが、理解したというには程遠かった。
しかし通常の勉強でも同じように、反芻していればいつか自分の知識になる気はした。
翌朝、妖術書をぱらぱらと開いてみると、自分が思う以上には内容を覚えていた。就寝前に解けなかった数学の問題が、翌朝すんなり解けることがあるように、眠っている間に脳が勝手に整理整頓をしてくれたらしい。
――凪砂とハロは本当に双子なの?
何かに夢中になることで、頭と心に空白ができるのを避けている。
一つの物事に関して、深く考えることを避けている。
だから僕はこれからなにが起ころうとしているのか、気付けなかった。
◆
妖術書を手にして、数日が経った。
内容を理解したとは言い難いが、ぼんやりとなにかを掴めたような気がしていた。
僕は立ち上がり、何度か深呼吸をした。そして妖術書の内容を反芻し、両人差し指に血がめぐっている感覚に集中した。左手の親指の付け根を自らの骨盤に置き、左手の位置を安定させた。そして右人差し指の第一関節と、左のそれをマッチを擦るように交差させた。
右手に痺れるような感覚が走ったが、そこには肢刀が現れていた。
箸くらいの大きさであるが、それは確かに肢刀であった。イメージしていた日本刀とは程遠いが、肢刀を出せたことに素直に感動した。
安堵の息を吐く間もなく、肢刀はちりりと消えてしまった。
――抜刀するには血統が物をいう
朔馬のいう「直感」を疑っていたわけではないが、それは当たっていたのだろう。西の間にいって朔馬に見てもらおうとも考えたが、眠っている可能性も考えてやめておいた。もう一度同じことができるかと問われると、あまり自信がない。それに、どうせ見てもらうならもう少し精度を上げてからにしようと思った。
そう思った後で、自分はひどくプライドが高い子どもだったことを思い出した。
幼い頃は、当然のように波浪と毅とばかり遊んでいた。二人は昔から、僕よりもずっとずっと足が速かった。浜辺で「あそこまで競走しよう」という遊びを、何度もやった記憶がある。
しかし僕はいつしか、それを拒否するようになった。
その時植えつけられた「二人には追いつけない」という強烈な記憶。自分は足が遅いのではなく、二人が特別に足が速いと知った今でも、それは強い劣等感として僕の中に存在している。追いつけない二つの幼い背中は、今も鮮明に思い出せる。嫉妬と羨望が、痛みとして蘇る。
それでも僕は、体育祭で喝采をあびる二人を見るのはとても誇らしかった。自分が賞賛される以上に、嬉しかった。
痺れの残る右手を見つめて、ベットに倒れ込んだ。
あの頃より、ほんの少し世界を知った今なら分かる。くり返すことで人は成長する。個人差はあれど成長する。今ならそう思える。
「……い! おい! 寝ているのか?」
目の前には灰色のはちわれ猫がいた。つまりは光凛である。起き抜けのせいか、猫が人語を話しているのは妙なものだなと、改めて思った。
「寝てた」
肢刀を出したせいか、僕は疲れていた。妖術書には、知識に見合う体力が必要だと記載があったのでそのせいだろう。
「呑気なものだな」
僕は肢刀を握っていたはずの右手を見つめた。痺れはもう残っていない。
鵺を倒した朔馬を見て、追いつけない幼い背中を思い出した。しかし以前ほどの絶望はない。肩を並べて走れるのなら、努力をしてみたい。
そして、できるならば朔馬のように、降りかかる災厄から身近な人を守りたいと思った。
僕は上半身を起こして、小さく息を吐いた。するとベットに放り投げてあったスマホがチカチカと光った。光凛は驚いたらしく、警戒した目で画面を睨んだ。
僕はスマホを手に取り「危険なものじゃないよ」と画面を操作した。
「朔馬からだ」
「ほぅ」
そこには「今からハロと西弥生神社にいってくる。鵺と土地神に会ってくる」とあった。僕はそれを光凛のために読み上げた。
「土地神か、邪神(じゃしん)でないといいな」
「邪神? 悪い神様もいるってこと? でも、なんでハロも一緒なんだろう」
僕はただ「了解」のスタンプを送った。
「色んな人間がいるように、色んな神がいる」
「それは、そうだろうけど」
「邪神だった場合、朔馬はまた寝込むことになるかもな」
「嫌なこというなよ。鵺に噛まれたのだって事故みたいなものだし、朔馬はたぶん強いんだろ?」
「強いとて、日本では強い制限を受けていると聞いている。しかしアイツなら、自分の身一つは守れるだろう」
その言葉は僕の心をざわつかせた。
「第三者がいた場合は? どうなる? 妖術は使えない、ただの人間だ」
「相手が邪神ならば、負傷する可能性はあるかも知れぬ。邪神でないことを祈るしかない」
朔馬が率先して波浪を巻き込むとは思えない。おそらく何か事情があるのだろう。
しかし、どんな事情があるのだろう?
僕はこの数日、二人とあまり会話をしていないように思う。自分のことばかりで、妖術書を読むことばかりに、気を取られていた。しかしその甲斐あって、先程は肢刀を出すことに成功した。
右手を見つめていると、今ならなにか出来るような気がした。
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