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◆第九章 【都合がよかった】 波浪◆
建辰坊の指す「夜」が、何時くらいなのか分からなかったが、私と朔馬は日付が変わる前に西弥生神社に向かうことにした。
「正装というか、制服でいった方がいいかな?」
「今のままで大丈夫だよ」
私はそういいながら、薄手のパーカーに袖を通した。
「コンビニで団子でも買っていこうかな。お供え物として」
「それは喜ぶと思う」
朔馬に緊張した様子はなかったので、私はほっとしていた。
家を出ると、墨汁を垂らしたような闇夜が広がっていた。コンビニを出ると、その闇は一層濃くなったように思う。
建辰坊がどうして夜を指定したのか、理由を聞いてもよかったかも知れない。そんなことを考えながら、私はスマホのライトをつけた。それを見て朔馬は「光源にもなるのか」と呟いた。
「あ、凪砂。凪砂にも一声掛ければよかったかな。ハロと神社にいってることは、凪砂に連絡してもいい?」
朔馬はいった。
「いいよ」
「土地神に会うことも?」
「いいよ」
「でも凪砂は、ハロが見鬼だってことは知らないんだろ?」
「知らないだろうけど、隠してるわけじゃないから」
朔馬は「なるほど」といいながら、スマホを操作した。
西弥生神社の一の鳥居に踏み込むと、心なしか気温も下がったように感じた。
「その灯り、消していいよ」
朔馬はそういうと、左手の親指と中指で小さな輪を作り、それを口元に持っていった。朔馬が指で作った輪にふーっと息を吹きかけると、目の前にふわりと青い火の玉が現れ、それらは石段の両脇にある灯籠に吸い込まれていった。
「きれいだね……」
「これは呪術だよ。指で作った円が呪陣の役割なんだ」
「朔馬も呪術が使えるの?」
「少しね。俺の専門は妖術だけど」
朔馬はそういいながら、石段を振り返った。
「なんだろう? ここはもう神域なんだろうけど、すごく変な感じがする」
「そうなの?」
「ここに結界を張っておこうかな。ここには鵺がいるし、これ以上変な妖怪が紛れ込んだら面倒だ」
朔馬は石段の途中に、小さな陣を書いた。
「この中に何かが入ってきたら感知できるし、多少は害妖の侵入を防げる」
私たちが境内に足を踏み入れると、建辰坊が空から現れた。
夜に見る建辰坊は、いつもより大きく見えた。
建辰坊は朔馬からお土産の団子を受け取ると、朔馬を無遠慮に見つめた。
「ネノシマの桂馬だな?」
「ネノシマの桂馬というより、雲宿(くもやど)という組織の桂馬かな。ネノシマは今、二つの勢力に分かれてるんだ」
私が「そうなの?」という顔で朔馬を見つめると、彼は「そうなんだよ」という感じに頷いた。
「そういえばずっと昔、耳にしたような気がするな」
「早速本題で申し訳ないんだけど、鵺を見たい」
建辰坊は「団子を食べ終えてからでも、遅くはないだろう」と、軒下に腰を据えた。私たちもそれにならって、軒下に座った。それから建辰坊は私たちに団子を分けてくれた。
「今、捕獲している鵺は三匹だ。この神社には、よくないものが集まるようだ。だからお前が力になってくれたらありがたい」
朔馬は建辰坊を一瞥した。そして何かを思考した顔のまま、団子を頬張った。
「神域が機能していない、とか?」
「それもある」
「この子に呪術を教えているのは、そのよくないものを散らすためなのか? 人間の呪術は、妖怪が嫌うことが多いからな」
朔馬の言葉を受けて、建辰坊は私を見つめた。
「そういう意図もあったかも知れない」
朔馬は私の真意を確かめるように、こちらに目を向けた。建辰坊が私に呪術を教えることに、多少の打算があったとしても、憤りを覚えることでもない。むしろそれくらいの打算があって、然るべきだろう。私は朔馬に浅く頷いた。
「よくないものが集まる原因は? その原因はわかってるのか?」
建辰坊は「断言できないが」と前置きした上で、以前私に見せてくれた妖鳥の話をした。
「その妖鳥は、なぜ石になったんだ?」
「妖鳥は数百年前、瀕死の傷を負ってネノシマからやって来た。その傷を癒すために、石になったと記憶している」
「数百年前? なぜその妖鳥は、ネノシマから出られたんだろう」
「鵺もネノシマから来たのだろう? 不思議には思わなかったが、なにか気掛かりなのか?」
「ネノシマの結界は、ここ数年弱まってる。だから鵺の件はそれほど不思議はないんだ。でも数百年前は話が別だと思って」
その後で朔馬は「この土地は昔から、ネノシマから色んなものが流れ着いていたのかもな」とぽつりといった。
朔馬のいう「ここ数年」というのは、凪砂が日本に流れ着いた約十五年前も含まれるのだかも知れない。
「とにかく鵺を三匹も捕獲してくれてるわけだし、できることがあれば協力するよ」
建辰坊は「頼む」と短くいった。
「あの鵺、ただの鵺ではないな?」
「おそらく、誰かに使役されていたようだ。誰かの意志によって、ネノシマから出たのかも知れない」
「そんなことをして、なんの意味がある?」
「ネノシマの結界が弱っていることを確かめたかったんじゃないか? まぁ、そのあたりは上層部が考えるだろ」
朔馬の声は、すっと冷たくなったように感じた。
なんとなく朔馬の顔を見ると、彼は何かに気付いたように、鳥居を凝視していた。
「なんだ? なにか来る」
朔馬は鳥居から目を離さず、腰を浮かせた。
「どうした?」
建辰坊はいった。
「ここに来る前に、石段に結界を張っておいたんだ。なにかが、ここに向かってる」
朔馬は静かにいった。その間も彼は、視線を動かさなかった。
「結界の中に、二体、か?」
朔馬は立ち上がり、鳥居に近づいた。
私も建辰坊も、朔馬の後に続いた。朔馬は歩みを進める中で、両人差し指の第一関節をマッチのように擦った。すると朔馬の右手には白鞘の日本刀が現れた。思わず「えぇ……」と声が漏れた。
朔馬は立ち止まり、右手に握った刀を見つめて、何か考えているようだった。
その間に、石段を上る足音が聞こえてきた。その音が大きくなるほど、私の不安も大きくなった。
「俺はここで様子を見る。建辰坊はハロを連れて、どこかに隠れていてくれ」
建辰坊は頷くと、羽根を広げて私に手を伸ばした。
同時に、足音の正体が石段から顔を出した。
「凪砂?」
私は足音の正体に、胸をなでおろした。
しかし私とは反対に、凪砂は絶望の表情を浮かべていた。
凪砂の目には、私と朔馬しか映っていないはずである。しかし彼の目は、建辰坊の姿も捕らえているようだった。
建辰坊は私を安全な場所へ移動させようと、その手を伸ばしている。
その様子は、凪砂の目にどう映るのか? それは凪砂の表情を見れば明らかであった。
凪砂は石段を上りきる間に、右手で左ポケットから何かを取り出すような仕草をした。彼は右手に握ったなにかを唸り声とともに、こちらに投げた。
投げられたそれは、建辰坊へまっすぐに向かってきた。
「建辰坊、避けろ!」
朔馬はそういって、凪砂の投げた何かの軌道へ手を伸ばした。間に合わないかと思われたが、朔馬の手はギリギリのところで、それに届いた。
しかし凪砂の投げた何かは、朔馬の手をじりりと焦がし、そこを通り抜けようとしていた。朔馬は右手の甲に左手を添え、必死にそれを食い止めていた。
――神様に危害を加えたり、万が一にも殺してしまったりしたら例外なく祟られる
朔馬が守ろうとしているのは、建辰坊と凪砂である。そう理解した瞬間。今この瞬間がとても恐ろしかった。
そして唐突に、終わりは訪れた。朔馬の両手を貫通していた何かは、少しずつ後退しているように見えた。するとそれは朔馬の手から離れ、物凄い勢いで海の方へ弾き飛ばされた。
すべては一瞬の出来事で、私も建辰坊も動けないでいた。
朔馬だけが冷静だった。
彼は呼吸が整わぬままこちらを振り返り、建辰坊と私の無事を確認した。そして凪砂の方に顔を向けた。
凪砂は鳥居の下で、突っ伏すように倒れていた。
その傍らには、灰色のはちわれ猫が戸惑ったように佇んでいた。
◆
私と朔馬は、気を失っている凪砂を社殿の軒下に運んだ。
凪砂を運ぶ間、私がよほど不安そうにしていたのか、朔馬は「大丈夫。眠っていだけだよ」と、子どもに言い聞かせるようにいった。
「簡潔に説明しろ」
しかしその後で朔馬は、はちわれ猫にひどく冷たい声でいった。猫は押し黙っていた。
「凪砂が建辰坊に投げたのは、肢刀だろ。未熟だけど、未完成ではなかった。抜刀したのは、光凛が無関係ではないだろ」
それでも猫は何も発することはなく、ただ戸惑いを隠せない様子であった。
朔馬は諦めたように、息を吐いた。
「今日はもう帰れ。この件は、あとで聞く」
はちわれ猫は何かを訴えようと口を開いたが、結局何もいわずに煙のように消えた。
朔馬は大きく息を吐いた後で、私と建辰坊を交互に見つめ「ごめん」といった。
「お前は手を洗ってこい。負傷しているだろう?」
朔馬はそういわれて自らの負傷に気づいたらしく「そうだな」と、呟いた。
◇
「凪砂には、ネノシマとの連絡手段を預けてたんだ。でも預けるべきじゃなかった」
朔馬の後悔の念は、いわずとも感じられた。
凪砂が建辰坊に投げたのは、肢刀というのもで、妖術の一種らしい。朔馬が両人差し指を擦って出した、日本刀と同じものである。肢刀は普通の刀とは違い、自分の意図したもの以外を深く傷つけることはないという。
凪砂の放った肢刀は、建辰坊へ向けたものだと朔馬はすぐに理解した。だからこそ朔馬は、身を挺して肢刀を止めたのだった。朔馬は両手に結界を張り、肢刀を弾き飛ばしたらしかった。
「怒りがわいても仕方がないけど、できれば許してほしい」
朔馬は建辰坊にいった。
「俺は怒っていない」
建辰坊はあっさりといった。
「凪砂は、ハロの弟なんだ」
こちらを見る建辰坊に、私は浅く頷いた。
「凪砂が妖怪が見れるようになったのは最近のことなんだ。建辰坊を見て、ハロに危害を加える可能性を考えたのかも知れない。咄嗟に攻撃してしまったんだと思う」
「俺自身は、なにも問題はない」
「凪砂が起きたら、冷静になって謝ってくれると思う」
「それより、なぜこいつは気を失っているんだ? 俺は何もしていないはずだぞ」
私たちは、目を覚まさない凪砂を見つめた。
「眠ってるだけだよ。肢刀を投げるのは、初心者には難しいとされてるから、体力を消耗してしまったんだと思う」
凪砂は規則的に呼吸をしているので、眠っているというのは事実であった。
「姉に危機が迫っていると感じたなら、火事場の馬鹿力も出るだろう。しかし、よく止められたな。俺に危害を加えた人間は、どんな祟りを受けるか、俺自身にもわからぬからな」
建辰坊は他人事のようにいった。
「本当に運がよかったとしか。とにかく、建辰坊にケガがなくてよかったよ」
朔馬は自らの手のひらを見つめた。
「お前の手は大丈夫なのか?」
「見た目ほど痛くはないよ」
「それならいい」
張りつめていた空気がゆるやかに元に戻っていく中、それは微かに聞こえてきた。そしてそれは次第に大きくなっていく。
暗闇をつんざく不気味な音が、背後から響いた。
反射的に視線を向けると、西弥生神社の上空に大きな鳥が飛んでいた。鼓膜を揺らしているのは、その鳥が羽ばたいた音らしい。
「妖鳥だ」
建辰坊はいった。
その後で朔馬は「雉だ」と、呟くようにいった。
その鳥はこちらに一瞥もくれず、まっすぐに海に向かっていった。
ネノシマの方へ飛んでいった。
嫌な予感が、胸に黒く滲んでいくようだった。
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