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◆第一章 【初めまして】 波浪◆
この海沿いの町からは、ないはずの島が見える。
その島は、ネノシマと呼ばれている。そこには、神様や妖怪たちが住んでいるとされていた。
ネノシマは、この土地で生まれ育った者にしか見えず、さらには大人になるにつれ、ネノシマは見えなくなるらしい。大人たちは時々「今日は久しぶりにネノシマが見えるな」なんて口にする。そんな日は決まって空気が澄んでいて、ネノシマは眩しいほどに光って見えた。
私は幼い頃から毎日、ネノシマが見えていた。
それは今も変わらない。
◇
私には霊感のようなものがあるのかも知れない。
はっきりそう自覚したのは、中学生になった頃だった。
変なモノが見える。それは透けていたり、ぼんやりしていたり、とにかく色んなものを見た。
幼い頃からそういう類のものを見ていたら、見ているものについて誰かに言及しただろう。しかし中学生という年齢では自分の目を疑うことも、他人にそれを理解してもらうことも難しかった。
私が見えているものについて言及したのは一度だけである。
とても寒い日だった。
学校の帰りに、毅(たけし)と二人で歩いていた時のことである。
寒い寒いと言い合っていたら、目の前を小さな雲に乗った風神様が通りすぎていった。
どこかの神社仏閣で目にしたのか、何かのキャラクターとして目にしたのか、とにかく私はそれが風神様だと理解した。それは今まで見ていた不思議なものより、ずいぶんはっきり見えた。
風神様が通りすぎると、後を追うように、冷たい北風がぶわっと私たちを追い越していった。
「うわッ! 寒すぎだろ」
毅は首をすくめた。
「今の見えた?」
「お前のパンツなら興味ないけど」
私は毅の言葉を無視して、先程見た風神様の話をした。
「お前にしか見えないんじゃない?」
変なことをいった自覚はあるが、毅は私の言葉を微塵も疑わなかった。
「いつも見えてんの?」
「風神様は今日が初めて。それ以外は時々見る」
毅は「へぇ」とだけいった。私の言葉を、どう飲み込もうかと考えているようである。
「そういうの見て、怖い目にあったり、具合悪くなったりはしないわけ?」
「今のところ平気」
「ならいいけど」
毅はそれ以上なにをいうでもなかった。しかし私は「こういうことは、もう口外しない方がいいのだろう」と思った。誰かに心配されたり不安にさせてまで、知って欲しい事象ではなかった。
見えない何かをなんとなく受け入れてしまえるのは「ネノシマが見える」という地域性が無関係ではないだろう。
「絶対風邪引いてると思うよ」
その日、帰宅すると開口一番に凪砂(なぎさ)にいわれた。そんな予感はしていたが、私は発熱していた。それから二日ほど寝込むことになった。その熱は風神様を見たせいなのかは、今も分からない。
しかしその風邪を機に、不思議なものを見る機会は増えたように思う。
便利なこともなければ、不便なこともない。不思議な何かが見えても、季節外れの蝶が舞っているくらいの認識である。
しかしそういう類のものを見ると、どうしてかネノシマの方を見てしまう。
ネノシマを見ると、揺らいだ心が静かになる。
◇
私がそれをはっきり目にしたのは、今年の初詣の時だった。
初詣は例年通り、家族で近所の西弥生(にしやよい)神社へ出向いた。
西弥生神社にいくには、長い石段を上る必要がある。西弥生神社はかなり古い神社であるらしいが、きちんと管理されている片鱗は所々に見受けられる。石段の真ん中に存在する手すりは比較的新しいものであると思われる。手水舎のひしゃくも、いつもきれいである。
普段は境内に人がいることはあまりないが、初詣の際は毎年人が溢れている。それは今年も例外ではなく、私たちは石段の途中から、社殿へ続く列に並んだ。
家族と会話をしながら列に並んでいる際に、社殿の屋根に私たちを見下ろす天狗の存在に気がついた。
顔は和紙で覆われている。山伏のような格好をしており、結袈裟(ゆいげさ)を首にかけていた。ぼさぼさの黒髪の上に、紫色の頭巾(ときん)をちょこんと乗せたその姿は、天狗だった。
表情は見えないが、なんとなく嬉しそうに見えた。天狗は参道にいるたくさんの人々を、愛おしそうに見つめている。
列が進み賽銭を放る際、私は受験生らしく合格を祈願した。社殿を後にすると、背中がぽかぽかとあたたかくなったように感じた。静かに振り返ると、社殿の屋根にいる天狗がじっと私を見つめていた。
和紙を透けて、その視線がはっきりと感じる。明確な意志を持って、私を見ていた。
数日ほど悩んだ。
しかし好奇心には勝てなかった。天狗にもう一度会ってみたかった。冬休みが終わる前日、一人で西弥生神社に向かった。
初詣の賑わいは、すっかり失せており、石段はしんとしていた。石段を上っている途中で社殿の屋根にいる天狗の姿を確認し、私は不思議と安堵した。
「お前は、俺が見えているな」
境内に足を踏み入れると、寒空に天狗の声が響いた。
話しかけられるとは思っていなかったので少々面食らったが、素直に頷いた。
「なぜ俺が見える?」
天狗は黒い羽根を広げ、私の前にふわりと降り立った。
間近で見る天狗は、とても大きく見えた。それは私が天狗を畏れているせいなのか、実際に大きいのかは、冷静に判断できなかった。
私たちはしばらく、互いの顔を無遠慮に見つめ合った。
「お前はなぜ、俺が見える?」
天狗は再びそういうと、私の目を覗き込んだ。
私は「さぁ?」と首をかしげた。
「希少種の妖怪に、目玉でも舐められたか?」
天狗は黒い羽根を広げ、私の両脇を抱えて静かに空を飛んだ。
「え! なに?」
自分が空を飛んでいる以上に、天狗が私に触れられることに驚いた。
今まで見てきた不思議なものにも、もしかしたら触れることができたのだろうか? 地上が離れていく間、そんなことを考えていた。
「あの場所では、お前の目玉が陰る」
天狗は私を社殿の屋根へ置いた。それはとても丁寧な動作で、私は立ったまま神社の屋根に着地した。
天狗は再び、私の目を見つめた。
「見鬼(けんき)にしては妙な目だな」
「ケンキ?」
「俺たちのことが見える者のことだ」
「私以外にも、見える人がいるの?」
「そういう者は時々いる。気まぐれに寄ってきては数年、数十年でパタリと消える。野良猫のようなものだ。そういえば、久しく人間と話していなかったな」
天狗のいう「久しく」とは、どれくらいなのか想像することは難しかった。
「あなたは神様なの?」
「俺の名は、建辰坊(けんしんぼう)だ」
彼は私の問いには答えず、静かに名乗った。
「私は、波浪(ななみ)。伊咲(いさき)波浪(ななみ)です」
◇
その後私は建辰坊のいうように、野良猫のように気まぐれに西弥生神社にいくようになった。私が神社に顔を出すと、建辰坊は心なしか嬉しそうであった。深く関わらない方がいいと思う反面、やはり好奇心には勝てなかった。
石段を上って二の鳥居をくぐると、いつもなんとなく振り返る。そこからは、ネノシマがよく見える。
「明日から高校生だよ」
私はコンビニで買った饅頭を建辰坊に渡した。
彼は基本的に食事をしないが、娯楽としてお供え物を口にすることがある。不審に思われないのか? と問うた際に「野生動物が食べたと思うだけだ」と返ってきた。
「コウコウセイか、それは良きことだな」
建辰坊は手にした饅頭を、顔を覆う和紙の下で頬張った。
「最近、変わった妖怪を見たか?」
建辰坊はぽつりといった。彼が深刻そうにいわなかったからこそ、それはとても重要なことに思えた。
私はその問いに首を振った。
「そうか、ならば夜は出歩かぬ方がいい」
「なにかあったの?」
「鵺(ぬえ)がうろついている。鵺は獰猛な妖怪だ。お前のような見鬼は狙われる可能性がある」
「妖怪が人を襲うの?」
「襲う妖怪も存在するということだ。人間は鵺に噛まれると、寝込むことになる」
建辰坊は饅頭を食べ終えると、私を社殿の裏へ案内した。そこには虎の脚を持つ獣が眠っていた。
「初めて見た。これは妖怪なの?」
眠っている鵺は薄く片目を開けて私の姿を確認すると、不愉快そうに「ビヨ」と小さく鳴いた。そして再び目を閉じ、眠りに落ちたようだった。
「妖怪だ。人に害をなす故、害妖(がいよう)と分類されるらしい。なんの因果か、ネノシマから渡ってきたようだ」
建辰坊から「ネノシマ」という単語を聞くのは、どこか新鮮だった。見えるものは存在する。ネノシマも存在する。そう理解していても、確信のようなものは持てずに過ごしていた。
「ネノシマからは、色んなものが来るの?」
「ほとんど来ない。とても稀なことだ。ネノシマは長く鎖国している」
「鎖国?」
「しかし鵺退治のために、近々桂馬が跳ねるとの達しがあった」
ネノシマは鎖国中であるが、親交のある神社が日本に一社だけ存在するらしい。どんな手段かは分からないが、その神社から連絡があったという。
「夜は出歩かないこと以外に、気を付けることはある?」
私は眠る鵺を見つめたままいった。
建辰坊は何かを思考するように黙ると「ない」といった。そして「お前に、簡単な呪術を教えてみたい」と私をみた。
その日から建辰坊は、呪術を教えてくれるようになった。建辰坊の教えてくれる呪術は、例外なく発動した。
しかし術を発動させた後は、ひどく疲れる。そのせいか高校生になってからは、決まって夕飯前にソファーで眠っている。
◆
その日私は掃除当番で、いつもより遅い電車で帰宅した。
忘れていたわけではない。忘れるはずがなかった。ただどうしてか、頭からすっぽり抜け落ちていた。
今日もいつもと変わらぬ日常が続くと思い込んでいた。
しかしその思考は、玄関を開けた瞬間に霧散した。
玄関を開けるとそこには、凪砂とともに見知らぬ少年が立っていた。
「あ、おかえり。昼間、連絡いれただろ? 今日からうちに住むことになった、桂城(かつらぎ)朔馬(さくま)」
凪砂に紹介された少年は「初めまして」と、小さく頭を下げた。
その少年はおそらく人間ではない。強くそう感じた。
私はきっと怖かった。
こんな瞬間が来ることが、ずっと怖かった。
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