ep.1 その女、ワーカーホリックです(海李子side)

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ep.1 その女、ワーカーホリックです(海李子side)

 生きていくために必要なものは、シンプルだ。  水、食べ物、酸素。  それから。  (さい)たるものは、仕事(生きがい)。  今は、もっぱら酸素が足りない、と、水槽に放り込まれた金魚のように、倉持海李子(くらもちみいこ)は呼吸を早くする。社内に貼られているポスター、節電のために社員は階段を使いましょう、というスローガンを律儀に守り、足を動かす。  ひとつにまとめた黒髪は馬のしっぽのように左右に触れ、揃った前髪の下、額にはうっすらと汗が滲む。  はるばる2階から、目的のウェディングドレスが展示されている10階の踊り場が見えた。  あとひと息だと、最後の力を振り絞って、駆け上がろうとしたとき、 「一志(かずし)くんから、キスして」  と、ねだるような甘えた声がした。 「いーよ」 「……んっ」  踊り場から落ちてきた二人の声は海李子がよく知っているもの。 「……そんな簡単なものじゃなくて、恋人みたいなキス」 「ちょい待ち。俺ら、……恋人?」 「ひどっ、……この前、私のこと好きって言ったよ?」 「あ〜〜……。……ゆゆはとするセックス好きって言った」  海李子はローヒールの音が少しでも鳴らないよう、足音を忍ばせる。チャコールグレイのパンツスーツが擦れ合うわずかな音さえ煩わしく、呼吸も最小限に。  今日こそ現行犯で、押さえたい。
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