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やがて、キヨはどうしたらよいかわからなくなったのか、ここ数日はさすがに気まずそうに過ごしていた。そうして二人の間で必要最低限以外の会話が交わされることはなくなっていった。文房具を買いにいったのも、恐らく一人になるための口実だろう。
一人きりの部屋のベッドに寝転がって、悉乃は天井を見つめた。事の発端になった、市電での一件を思い出していた。
あのことがなければ、バレずに済んだのに、と思った。だが、あの状況でああいう行動を取ったことに後悔はない。遅かれ早かれ何かのきっかけで知られた可能性もあるのだし。
――それにしてもあの人。あんな風にいかにも掏ってくださいと言わんばかりのところに財布を入れて。挙句に、まんまと掏られているし、ちょっと抜けている人なのかしら。
悉乃はぼんやりとそんなことを考えた。
だがそれよりも、茂上武雄と名乗ったあの男に、無性に会いたくなってきた。いや、別に彼である必要はない。女学校で今の自分が置かれている状況を知らない人に会えれば誰でもよかった。
名前と、学校しか知らなかった。が、それさえわかれば十分とばかりに、悉乃は急いで身支度をして部屋を出た。
そして、市電を乗り継いで東京高師――東京高等師範学校へ向かった。
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