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「お客様、おひとりですか? よろしければカウンターにどうぞ」
すっかり挙動不審になってしまった私を怖がることもなく、女性はにこやかに応対してくれた。
「は、はい……」
促されるまま、カウンターの端っこに座った。スーツケースが邪魔にならないように、高い椅子の足元へ押し込んだ。
「ご注文はお決まりですか?」
麗しい微笑みだった。あれから何年か経っているのに、その美貌は少しも衰えていない。
「あ、温かいコーヒーを。あと何か甘いものがあったら、それも」
「かしこまりました。それでは本日のブレンドと、当店自慢のチーズケーキをお出ししますね」
女性は優雅な手つきでコーヒーを淹れている。カフェでは普通に見られる光景なのに、流れるような動きに目を奪われる。背が高くて姿勢が良いからだろうか? 立つ姿さえ美しい。
「お待たせしました。ブレンドとチーズケーキでございます」
「あ、ありがとうございます……」
「ごゆっくりどうぞ」
湯気が立つコーヒーを、ゆっくりと口に含んだ。
「あ、美味しい……」
「ありがとうございます。コーヒーに力を入れておりますから嬉しいです」
微笑む女性の頬は、ほんのりと赤くなっていた。自慢のコーヒーを褒められて嬉しいようだ。
「お客様はご旅行ですか?」
「いえ、元々この地方の出身なんです。今日、こちらに帰ってきました」
「そうでしたか。長い旅路でしたね。お帰りなさいませ」
『お帰りなさい』
何気ない言葉が、心の中でゆっくり響いていく。都会では、ひとりで暮らしていた。「おかえり」と言われたことは、ほとんどなかった。父が遺した家に戻っても家族はいないから、出迎えてくれる人もいない。
「お客様……? どこか御気分でも悪いですか?」
「え……?」
気付けば、私の目から涙がこぼれていた。美味しいコーヒーを飲んだことで心が緩み、ずっと言って欲しかった言葉を聞いてしまったからかもしれない。
「や、やだ。ごめんなさい。ちょっと嬉しくて……。具合が悪いわけじゃない、です」
慌ててカバンからハンカチを探そうとするが、涙でうまく見つけられない。
「よろしかったら、お使い下さい」
差し出されたのは、白いシルクのハンカチだった。
「で、でも、きれいなハンカチが汚れてしまいます」
「かまいませんから、どうぞお使いになって。他のお客様に見られてしまう前に」
カウンターには私ひとりだったが、テーブル席には何人かの客がいた。カウンターで泣く女がいたら、ハンカチを差し出してくれた女性に迷惑がかかってしまう。
「ありがとうございます。洗ってお返しします」
「どうぞお気になさらず」
白いハンカチでそっと涙を拭う。初めて入ったお店で泣き出すなんて、よく考えたらとんでもない醜態だ。穴があったら入りたい……。
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