リフォーム前女子の異世界召喚

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 いきなり段差につまづき転んでしまい、私は慌てて手を前に突き出した。 顔から突っ込まないで良かったあ。ふと掌を見ると擦り傷が出来ている。 (あーあ、もう)  私はヒリヒリする手を見て、ばい菌が入ると嫌だし、どこかの店でトイレでも入って洗おうと思いつつ、派手に転んだから通行人の注目を浴びたかなー恥ずかしいなあ、と視線を下げたまま、何でもない事のように立ち上がる。 だが、そこはいつもの見慣れた町ではなかった。 「……あれ?」  きょろきょろと辺りを見渡すと、石造りのホールのような建物の中に居て、二人の外国人がいて私を取り囲んでいる。皆、何故かホッとしたような顔をしていた。  ──いやどこよ、ここ?  私の記憶では仕事前にいつもの美容院でカット予約をしており、そこに向かっていた筈だったのだけど。確かに繁華街である新宿だから外国人は沢山いるけど、こんな派手派手しい恰好をしている人にはお目にかかった覚えがない。第一この建物だって見覚えがない。何か映画やドラマの撮影中にうっかり踏み込んでしまったのだろうか?  ……うん、それが一番現実的だわ。スマホを見ながら歩いていたから自分の行動に自信がない。今度から人混みで情報チェックするのはやめよう。 「あの、すみませんでしたご迷惑おかけして! すぐ出ますので本当に!」  損害賠償など請求されては困る、と慌てて頭を下げて逃げ道を探すが、扉の前にはガタイのいい男が二人扉を守るように立っている。無意識にあんな所から入ったの私? やだわぁながら歩きって怖いわねー、もう二度としないわ私、と心に誓う。 そこに、六十代位のヨーロッパの聖職者みたいな恰好をした、やつれたオジサンが私に声をかけた。 「聖女様! ようこそ我が国においで下さいました! 四度目の正直でしたが、諦めずに頑張って本当に良かった……」  いきなり私の手を握り目を潤ませるオジサン。流石にプロの俳優なのね、アクシデントに物ともしない……ってこれはまさかお芝居続行中なのかしら、というぼんやりした目を向けていると、その横に立っていた、まだ三十歳にはなってないだろう軍服のようなものを来たムキムキな、茶髪にライトブラウンの瞳をしたかなりイケメンのお兄さんが、聖職者風のオジサンを制した。 「聖女様は混乱しておいでです。きちんと説明をしなくては、こちらの世界の状況はお分かりにはならないでしょう神官様」 「お? おおそうだ、そうだったな! 私とした事がつい年甲斐もなく焦ってしまった。聖女様、大変失礼致しました。すぐお茶を用意させますので隣の部屋でおくつろぎ下さい。ちゃんと説明させて頂きますぞ」 「いや、あの説明とかいいので。私は予約がありまして、ゆっくりしていられないんです」  私はこれは新手の詐欺かと警戒して何とか逃げ出そうとするが、そっと語りかけるイケメン兄さんの一言で動きを止めた。 「聖女様。申し訳ありませんが、ここは聖女様がおられた国ではないのです」 「……は?」 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇  私はお金がかかっていそうな応接室に案内され、ふかふかのソファーに座らされたと思ったら、静かにメイドの女性がお茶を運んで来た。  濁った茶色い泥水のような中身を見てドン引きしたが、香りは良かったので覚悟して飲んだ。中身は美味しい紅茶だった。  それから詳しい説明を受けたものの、私は未だに信じられない思いで、向かいの期待溢れる神官様やらお兄さんをただ見つめていた。 「あのー、今一度確認致しますが、ここは私の住む日本ではない、と。あなた方が召喚の儀で私を呼び出したという事で間違いないでしょうか?」 「左様でございます聖女様」  信仰は厚そうだが髪は薄い神官は、疲れた顔はしつつもキラキラした眼差しで頷いた。  この国は大きな地震が起きて、山奥の地面に深い裂け目が出来てから、何故か魔物が現れる数が増え、土が汚染されたため田畑の作物も枯れたり、成長が著しく遅れ出しているようだ。  百年に一度ぐらいはこういった出来事が起きるらしい。  冒険者もいて討伐はしているのだが、数が多すぎて大きく減らすまでには至ってない模様。  過去の文献に、この国の人間には使えない聖属性の魔法を使える異世界の聖女を召喚し、土地を浄化し魔物の力を弱める力で、国の危機が回避されたという記述があり、今回ワラにもすがる思いで召喚術を使ったらしい。ものすごい魔力と精神力を使うそうで、神官のオジサンが最初に見た時にぐったりしていたのもそれが理由らしい。大丈夫かな、無茶すると毛根にもよろしくない気がするんだけれど。 「──そもそも、何故私なのでしょうか? 正直特別な力もないですし、ごくごく平凡な一般市民なんですけれども。全くお役に立てないと思いますよ」 「それについては俺が説明します。神官様はお疲れですので少しお休み下さい」  騎士団長のグレイと名乗ったイケメンマッチョなお兄さんが私に笑顔を向けた。  イケメンに接待されても誘拐の事実は変わらんぞ。ほんとイケメンだけど。 「まず、召喚出来る方には条件があるんです。癒しの心と強い意志を持っている乙女である事。……つまり、異性との淫らな行為をしてないという清らかな身体である事が必要なのです。それと想像力の豊かな十五歳から十九歳という年齢制限がありまして。そちらでは割と結婚が早いのでしょうか? なかなかその世代で条件に合う方が少ないようで……」  まあ十九歳だし淫らな行為はまだしていない。強い意志もない訳ではないけど、癒しの心とか乙女とかって言われてもなあ。想像力豊かな十代って中二病扱いなの? わたしののかんがえたさいきょうのせってい、とか考えた事もないけどな私。 「えーと、そうですねえ、日本では結婚してなくても乙女でない方は多いですね。結婚については、仕事などに就いて、生活が安定する二十代半ば以降が一般的には多いとされています」 「何と! 婚前交渉が許容されているのですか? 何とふしだらな……」 「いや、むしろ他の国の方が多いと思いますよ。まあ結婚する前に相手と体の相性を知っておくのは合理的でもありますから。変わった性癖があったりして、後からやっぱり合わなかったじゃ離婚するにも大変じゃないですか? 一生の付き合いになるかも知れないんですから。まあ知識不足で望む前に子供が出来てしまったり、色々と問題点はありますけどね」 「それはそうかも知れませんが、この国では婚前交渉は禁止なので、その、独り者には刺激が強すぎるというか」 「……ほ? ではこの国には娼館などもないんでしょうか?」  私は内心呆れていた。どう見ても二十代後半に見える男性で、なおかつ見目麗しく筋骨逞しい男だ。初心な童〇の訳がなかろう。 「ありますが、それはもう結婚して跡継ぎを残した男性が出来る贅沢な遊びですから、結婚もしてない男は資格なしとして娼館にも入れません」 「何とまあ……」  内気だったりモテないタイプの顔立ちだったり、いわゆる女性にご縁がないタイプの男性もいるだろうに。女性だってそうだ。日本のように性に割とオープンな国も良いとは言い切れないけど、ここまで禁欲的な国もどうかと思うなあ。結婚出来ない人はどうするんだ。  するとグレイさんはモテ系だけどチェリーボーイって事ね。痛ましいわ。まあ私も経験ないから偉そうに人の事を言えないけれど。 「ゴホッ、それはともかくですね、三回試してもどなたもおいでにならず、これは聖女様の伝説は噂の域を出なかったのか、という疑いの気持ちになってダメ押しでの四回目で聖女様が現れた、という事なのです」 「何その行き当たりばったり感。たまたま私が引っかかっただけじゃないですか」 「運命とも言います」 「物は言い様ですね。別に私は来たくなかったので、そちらにとっての、というだけの事です。帰りたいんです帰して下さい、仕事もクビになりますし本当に困るんです!」  私は思わずソファーから立ち上がった。 「……お帰り頂く方法は勿論ございます。それもこちらに来た時と同じ時間に元の場所に。ですが、聖女様が浄化して下さらないと、その【帰還の門】も現在使えないもので、大変申し訳ございませんがどうか一つ……」 「は?」  私を呼び出す前に更に汚染が進んでしまい、神官様がその【帰還の門】とやらがある小高い丘にある建物まで行けなくなったとの事。おい、片道旅行が分かっていて呼びやがったわねあんた達。 「浄化しないと無理、と」 「誠に、誠に申し訳ありません! 私が年老いたばかりにあそこまでの穢れを無効化出来る力がないのです!」  よろよろと神官様が床に土下座をして頭を下げた。いや拐われた私が悪者みたいだから止めてそれ。年寄りに土下座させるとか流石に良心がうずくわ。  私はため息をついて少し考えた。とにかく帰る為には働かないとダメみたいなのは分かったけど、実際に私にはそんな力はないのだ。それ以前に若干の問題も。 「協力したいのは山々ですが、魔法とか使えませんよ私?」 「ああ、それは大丈夫です! 元々聖属性は魔法というより異世界の方が持っている潜在的な能力ですから。……おい、あれを」 「はっ」  入口に立っていた兵士の一人が扉を出て行き、少しして灰を被ったような汚れた三毛の子猫を連れて戻って来た。鳴き声もみゃ、みゃ、と力がない。グレイさんは私を見た。 「これが汚染された土地に住んでいる猫です。聖女様、触れて頂けますか?」 「触れるだけでいいんですか?」 「はい」  猫も犬も、何ならトカゲやカエル、虫全般など苦手な物は殆どない生き物好きな私である。まあ毒があるとか食べられるとかだと困るけど、少々汚れていようがどうという事はない。あ、擦り傷あるけど雑菌だけ入らないよう祈ろう。  私が子猫に触れると、たちまち柔らかな光が子猫を包み、驚いた事に汚れが綺麗に消えていくではないか。鳴き声も元気になってきたようだ。 「うわあ……」 「これが聖女様の持つ浄化、救済の力なのです。水属性の魔法を使える人間でも似た能力、『洗浄』や『治癒』を使える者はいるのですが、対人間に対しての物で効果も限定的で、現在の土地の汚染には対応出来ません。聖属性の力とは比べ物にならないのです。魔物に対しては弱体化の効果もございます」  私は自分の手を見た。はー、なるほどねえ。一抹の不安があったのだけど、異世界の人間てだけでここにはない力が使えるなら、役には立てそうだ。私も早く帰りたいし、ここはサッサと浄化して帰して貰うしかないわね。 「分かりました。協力致しますので、私が帰れる時が来ましたら、速やかに帰国させて頂けますか?」 「了解致しました。快く引き受けて下さり誠に感謝致します!」 「何て慈愛ある御方じゃ、有難うございます聖女様……」  神官様と騎士団長が改めて床で土下座する。  この強制的に引き受けざるを得ない流れで『快く』とか『慈愛』というのであれば、大抵の人は慈愛に溢れた聖人である。選択肢はイエスしかないのだから。  確かに私は条件に合った異世界の人間というだけではあるが、浄化の力もあるらしいし、あんな悲惨な状況になっている生き物も救済出来るのであれば、働く事自体はやぶさかではない。しかし私だって大切な家族も友人もいるし、浄化でも救済でも早く済ませて帰りたいのも事実だ。頑張って働きお金を稼がねばならない事情もある。 (しょうがない、早急に戻れるべく人助けしますか)  私は天井を見上げてやれやれ、といった気持ちで目を閉じた。  そして、こちらに来て早くも二週間経った。  思った以上に汚染は広がっていて、私の数日で帰るという目論見はあっという間に崩れ去ったのだったが、それでも着実に成果は出ていた。  何しろ自分でも不思議だったのだが、私が汚染地域を歩いているだけで、油に食器用洗剤を落としたようにパアアッと周囲が浄化されるのである。足からもパワーが出るとか自分すごいわ。ただこれは地面や植物だけであって、当然ながらそこで生息している生き物に対しては余り影響はない。  神官様やグレイさんが言うには、「土や植物、木の樹液などを食糧にしている生き物は、聖女様の浄化された後の植物を食する事で直に正常な状態に戻る」そうなので、その他の生き物は見つけ次第私が触れて救済するしかない。気が遠くなるような作業じゃないかと泣きそうになったが、幸いなことに、土地の浄化をすべくグレイさんや他の冒険者の人たちと歩いている内に、自分を助けてくれる存在というのが分かるのか、生き物が勝手にハーメルンの笛吹きのようにぞろぞろと現れるのだ。探しに行く手間が省けて大変こちらも救われた。  弱体化した魔物たちに対しても、冒険者の人たちが討伐しやすくなってとても助かると感謝しきりで、聖女様聖女様と崇める状況になってしまい、大変居心地が悪いので「真利亜と呼んで欲しい」とお願いした。 「マリア様と仰るのですね! 見た目通り美しいお名前です」  グレイさんはキラキラと目を輝かせてコクコクと頷いていた。彼は二十七歳でこの国の結婚適齢期は過ぎているのに独り身なのだそうだが、騎士団長というのは責任も多く中々忙しい仕事のようだ。休みも筋トレしたり眠るだけで、周囲は男ばかりで出会いもないらしい。前にそれらしい人もいたようだが、隊長になるとデートの時間もろくに捻出出来ず、早々に振られたとの事。いい人なのに不憫な人である。 「それにしても、グレイさんは私に付きっきりで浄化の旅に同行されてますけど、騎士団の仕事の方は大丈夫なんですか?」 「今の最重要事項は穢れの浄化と救済、それにマリア様の身の安全ですから。隊長が不在でもいいように副隊長や補佐もいるのです! それに冒険者というのは野蛮な奴らも多いですし、女性の対応も乱暴な者も多いのです」 「あ、ああそうですか」  私は内心で(女ではないんだけどね)と呟いた。  ──私はいわゆるトランスジェンダーである。心と体の性が一致していない人間だ。  世間ではLGBTQというアルファベットで一括りで表現されているが、ベクトルが全く違うと当事者としては思っている。  小学生の辺りから、どうもこれじゃない感がずっと自分の中にあった。女の子たちと遊んでいる時の方が自然に振る舞えたし、可愛い服を着ている子が羨ましく思う事も日常茶飯事。男の子たちが楽しむようなチャンバラ遊びや木登りなど、怪我をするような乱暴な遊びなどは全く興味がない、というかやりたくもなかった。両親にも訴えていたのだが、親としては一時的なものかも知れないから、と高校生まで変わらないなら病院で検査を受けようと提案してきた。  その間に世間ではトランスジェンダーという存在が広く認知されるようになり、ネットで性同一性障害という症状を確認したら、正にこれだ! とモヤモヤが吹き飛ぶ点が多々出て来た。それまではもしかしたら自分はゲイなのではないかと悩んでいた時期もあった。でも体は確かに男ではあるのだが、心は女なのだ。男として男を好きになる訳ではなく、女として男が好きなのだ。ああややこしい。  病院でも何度も染色体やホルモン検査、診察を受け、診断テストみたいなものをしたり、先生と話し合ったりもしたが、女性として生きて行きたいという気持ちは一切変わる事はなかった。病院のIDカードに『男性』と書かれていた事にすらショックを受けて「全く理解されていないのだ」と涙をこぼした私に、流石に両親も先生もこれは、という気持ちになったようだった。  直ぐにでも性別適合手術を受けたかったが、そんなに簡単に許可が下りる物でもなかったらしく、成長期にするのは健康面でも良くないという事で、女性ホルモンを注射するホルモン治療から進める事になった。高校に入って早々に治療を始めたためなのか、私は男性としては身長も低めで百六十六センチほど。線も細く、中性的な顔立ちで髭も殆ど生えず、すね毛なども薄かった。私立高校だったので、髪の毛も後ろで結べば男子も伸ばしてもいいという校則だったので髪の毛も伸ばした。男友達にからかわれたりもしたが、髪を伸ばすのは時間がかかる。女として長いサラサラした髪は憧れでもあったのだ。  高校を出てすぐ私は水商売の世界に入った。真利(まさとし)という名前を真利亜(まりあ)という通称名に変えた。職場はゲイバーとかショーパブと言われる所である。大学へは行きたかったが、男のままで行くなど我慢ならなかったので、水商売でお金を貯めて、自分の力で手術費用や当座の生活費を確保したかった。我が家もそんな何百万も気軽にぽんぽん出せる程、経済的に裕福な家ではなかったし、やはり生んで貰った体を変える事については申し訳なさもあったので、両親に頼りたくはなかったのだ。精神面の不調や体調を崩す人も多いらしいので、手術の後は暫く実家で休養させて貰って、大学費用に対しては任せろと言うので、遠慮なく甘えさせていただくつもりである。  化粧にもすぐ慣れ、自分が少しでも綺麗になるのが嬉しかった。女性と間違えられてナンパされた事もあるので、そこそこ女性に見えるような顔立ちなのだろう。女性になったとしても違和感は少ないはずだ。  お店のママにはトランスジェンダーである事は説明していた。ママは女装は好きでも、男のまま男が好きなタイプだったけれど、マイノリティの世界にいる人間同士分かり合える部分もあり、ゲイの男に引っかからないように「この子ノンケだから手出したらダメよ~」とお客様に釘を刺してくれている。とてもいい人だ。  まあそんな訳で、あと半年も働けば手術の費用が貯まるかな、という時の異世界だったのである。内面的には乙女と言えば乙女だし、体型や見た目もホルモン剤で女らしくは見えるだろうけど、体は男。そして、月に一度はホルモン注射をしなくてはならない。こちらに来た時の三日前に注射を打ったばかりだったのは幸いだったが、もうあと一週間かそこらで日本に戻らなくては私も困るのだ。いくら同じ時間に帰してくれると言っても、ここでの時間がなかった事になるのかも不明だし。何とか一週間以内で浄化を済ませて日本に帰ろう。それで病院に行って再度打つ必要があるのか検査しなくては。筋肉注射ってかなり痛いんだけど。 ◇  ◇  ◇ 「……これで、終わりかしら?」  ローブのような服を羽織った私は、小高い丘の上から町を見下ろしながらグレイさんに尋ねた。背後には雨宿りは出来そうだけどボロい屋根のついた石畳があり、その石畳の上にはよく分からない円と刻まれた文字が広がっている。これが神官様が言っていた帰還の門というものらしい。いや野ざらしなの? 雑よねー扱いが。  来たばかりの頃は、火山灰でも降ったのかと思うほど暗い灰色まみれの景色だったが、グレイさん、時には冒険者も一緒にせっせと歩き回り、土地の穢れの浄化に魔物の弱体化、生き物の救済と働きまくった。その結果、今見下ろしている町は、色彩豊かなごく普通のフルカラーな風景へと変貌した。いやー、これ本当に自分がやったのか。疲れたけど頑張ったわー私。 「はい! かすかに残った穢れ位であれば、魔物が消えれば自然になくなりますのでもう大丈夫かと思います。本当にお疲れ様でしたマリア様」  グレイさんが水筒から果実水をコップに入れて私に差し出した。 「有難うございます。……はー、美味しい」  ごくごくと飲み干す。お代わりを入れてくれた彼にお礼を言うと、更に半分ほどを飲んだ。空気はカラッとしているが、初夏くらいの気温で歩き回っていたのだ。いくら若くたって喉は乾くし体力は有限なのよ。 「ようやく帰れるわね……」  万感の思いで呟くと、グレイさんが悲しそうな顔をした。 「──マリア様は、早く帰りたいですか?」 「そりゃあ家族も友達もいるし、仕事もありますもん」 「こちらに残って暮らす、という事を考えた事はないですか?」 「ないですね。町の人は優しいし、ご飯は美味しいし空気も綺麗だけど、やはり私の故郷じゃないですから」  それに、こっちにいたら男のまんまじゃない。冗談じゃないわよ。何の為に手術費を貯めてると思ってるのよ。  ……まあグレイさんは素敵だし、優しくて強いしで好みの男性ではあるけれど、私が男のままでは恋愛にもならない。男だと知らないから好意を持ってくれてはいるようだけど。本当に申し訳ない。 「そう、ですか……」  グレイさんの沈んだ声は聞かなかった事にして「報告に行きましょう! 神官様に」と背中を押して歩き出す私であった。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 「この度は誠にお世話になりましたマリア様。ですがよろしかったのですか? せっかく国王陛下が何でも褒美を下さると仰せでしたのに……」  帰還の門の呪文のような記号が描かれた石畳の上で、神官様が気にしたように私に問い掛けた。昨日神官様に報告に戻った私は、最初に会ったきりの国王陛下と王妃殿下にお目通りし、やたらと感謝された。王妃殿下は目に涙まで浮かべて私の手を握り、ぶんぶんと振って頭を下げていた。 「別に宝石とか興味ないですし、領地くれるとか言われても帰る人間ですもの。それに、皆さんに感謝して頂いて、私もやりがいがあったので」  勝手に連れて来られたと思って最初は渋々だったけれど、子供たちが笑顔で花をくれ、ありがとうと言われたり、農家の夫婦には山ほど野菜を貰ったり、数え上げればきりがないほどお礼の言葉を聞いた。正直、日本に戻ってもこんなにお礼を言われるような事は一生ないだろう。その意味では実り多い一カ月弱であった。 「短い間ですがお世話になりました。神官様、グレイさん」  私はぺこりと頭を下げた。グレイさんは頭を垂れたままで目も合わなかった。少し寂しい。 「それでは、陣の中に入って下さい。少し目眩を起こすかも知れませんので、目を閉じておいて下さいね」  神官様はそう言うと、よく分からない言葉を早口で唱え始めた。  ようやく日本に帰れる。目を瞑り、今までの日々を想っていると、少し頭痛がし始めた。足元が温かくなってきて、沈むような感覚がある。  なるほどこれが帰還なのかしら、と考えていると、私の腕をがしっと掴む手を感じ、(えっ?)と目を開いたら、そこは私のよく知る新宿の町だった。ビルのデジタル時計を見ると、日付も確かに居なくなった日で、美容院の予約を入れていた時間より三十分ほど前の表示である。  あのジー様、じゃなかった、神官様、本当に力がある人だったのね。  ただ私なんで座り込んでるのかしら、と視線を巡らせると、何故か私の腕を掴んで目を潤ませたグレイさんが一緒に座り込んでいたので、ああグレイさんのせいねと何事もないように思ってから、何でここにいるんだと気付いて二度見した。 「……ちょっ、何してるんですかグレイさん!」 「マリア様と一緒にいたかったのでつい」 「つい、じゃないですよ! どうやって帰るんですかもう!」 「分かりません」 「はあああっ⁉」  思わず大声を上げてしまい、周囲の通行人の注目を受けてしまったので、私は立ち上がりグレイさんを引っ張り上げた。  何というカオスだ。  私はカバンからスマホを取り出し、美容院に予約のキャンセルを入れ、そのままバイト先のママの所にも電話をして、体調不良でお休みをしたい旨伝えた。 「あら、最近は病気が流行ってるから気をつけなさいよ。熱が出たら休んでいいから、ちゃんと病院に行きなさいよ」 「……すみません」    嘘をつくのは良心が痛むけど、町を見て驚いたまま動きを止めているグレイさんを放置は出来ない。  でもこの状況を一体どうしたらいいのやら。 (……家に連れ帰るしかないわよねえ)  ファンタジー小説も映画も大好物の母さんが大喜びするネタだろうと思うと、少し頭痛がぶり返しそうになったが、実家暮らしの私が出来る選択肢は他にない。  私はため息をついてグレイさんを自宅へ案内するのであった。 「まあまあまあ! 真利亜ちゃんが聖女に! 本当にそんな事ってあるのねえ!」  フラワーアレンジメントを家で教えている母さんは、ロマンチストというか、不可思議耐性があるというか、仕事に向かう筈の私が、騎士コスプレしてる外国人を連れ帰って来ても全く動じなかった。  信じて貰えないかも知れないけど、とあちらの国に行っていた時の事を話して、戻って来た際に巻き込まれてグレイさんもこちらに来てしまった事を説明した。  ダージリンのいい香りのする紅茶を運んで来た母さんは、グレイさんを見た。 「それで、グレイさん、戻る当てはおありなの? えーと、日本語伝わるかしら」 「不思議ですが分かります。こちらの言葉も伝わりますか?」 「口元の動きが発音と違うみたいだけど、ちゃんと分かるわ。不思議ねえ」  母さんに言われるまで、日本に来てもグレイさんと普通に会話が出来るという事に全く気がついていなかった私も私だ。私があちらで会話に困らなかったように、自動的に意思疎通が出来るようになっているらしい。 「戻る方法については分かりません。マリア様が元の世界に戻られるのが辛くて、思わず引き止めようとしたら一緒に来てしまったようです」 「困ったわねえ。……あら、もしかして真利亜の事が好きなのグレイさん?」 「はい。お慕いしています。許されるなら一生添い遂げたいと……」 「いや、グレイさん待って待って! 母さん、彼は知らないのよ私のこと」  私はいきなり好意をダダモレさせるグレイさんを押しとどめ、母さんを見た。私の言いたい事が分かったのか、目を合わせて頷くと、グレイさんに尋ねた。 「うちの子はまだこの国では未成年だから、結婚云々みたいな話は置いといて、戻る方法が見つかるまでどうするかよね」 「……別に戻れなくてもいいのです。マリア様と一緒に居られるなら」 「あら、真利亜ちゃん惚れられてるわねえ」    私をからかうように見ると、うーん、と考え込み、父さんと相談しましょ、とポンと手を叩いた。あの生真面目を絵に描いたような父さんが、果たして信用してくれるかは、神のみぞ知るだ。  結論から言うと、仕事から帰って来た父さんは驚く程簡単に信じた。  製薬会社の研究員というバリバリの理系である父が、何故こんな荒唐無稽な話を信じたのか。それは亡くなった母、つまり私のお婆ちゃんが、異世界に行った事があると幼い頃から聞いていたからなのだそうだ。 「学生の頃には半分本気にしてはいなかったんだが、余りにも詳細に語るものだし、そんな嘘を私に語っても何のメリットもないだろう? それに小説でもそんな話があったし、もしかしてそういう事も、実際に体験した人がいてもおかしくないと思ってな。それと、母さんの遺品整理をしていたら、古い手紙が出て来たんだが、全く文字が読めないんだ。もしかしたら彼には読めるかも知れん。ちょっと待っててくれ」  居間のテーブルから立ち上がり、早足で二階に上がったと思ったら、一通の古びた封筒を持って戻って来た。 「母さんが後生大事にしていたんだ」 「お借りします……おお、これは今は古くて使っていない文字もありますが、私の国の文字です!」    チラリと覗いたが、私には全く読めなかった。会話は出来ても文字は無理か。  開いて読み進めていたグレイさんが、ふうう、と溜め息をついて父を見た。 「これは、ラブレターですね。読んでもいいのでしょうか?」 「頼むよ。ずっと気になっていたんだ」 「『聖女マサコへ。  浄化が進むごとに、有り難い気持ちと、  君が帰ってしまう悲しさでどうにかなりそうだ。  だが、こちらの都合で勝手に助けを求めるため  異世界から呼び寄せたのに、帰るな、などとは  それこそ身勝手過ぎてとても口には出来ない。  私はちゃんと送り返すからね。  生まれ変わって同じ世界で出会ったら、今度こそ  一緒に生きようと伝えたい。  この想いは伝える事なく、君が帰る時にそっとバッグに  忍ばせる。  心から愛している。      ラスク―ド』」 「……お婆ちゃんがまさかの聖女だったとは」  私は口を開けたまま呆然としていた。私にはそんな話一切してなかった。 「ラスク―ド様は、今の神官様の前の前の神官様の名前と同じですね。同一人物なのかは分かりませんが」 「母さんの話は嘘じゃなかったんだなあ」 「ロマンティックねえ……素敵だわあ! もう、お義母様ったらどうして教えてくれなかったのかしら!」 「ボケたとか頭がおかしいと思われると思ったんじゃないかな。私が中学生の頃にはもう何も言わなくなっていたからな」 「言われてみたらそうよね。ちょっとグレイさんがいなかったら、流石に本気にはしてなかったかも知れないわねえ」 「マリアがあっちに呼ばれたのも血筋というか、呼びやすい血筋だったのかも知れないなあ」  いや、それはもういいとしてね。一番の問題はグレイさんが私を好きだと言ってる事なのよ。だって私、生物学的にはまだ男だし。この純愛風ロマンスの話の後に、いやあなたが好意を持って付いてきたところ恐縮ですが、私は実は男なんですよねーいやー誤解させて本当にすみませんでしたー、とか言ったら彼は立ち直れないんじゃないかしら。どう考えても女だと思ってるもの、コレ。どうしよう。 「──話は分かった。それで、取りあえず母さんの部屋があるから、そこで暮らせばいい。だが戸籍がないから仕事がなあ……」 「記憶喪失になって名前しか分からないとか、捨て子で親も分からないとかで国籍取得するのはどうかしらお父さん?」 「ああ、それはありだな」 「騎士団にいて体は鍛えておりますので、力仕事には自信があります」  もうすっかり家に馴染んで、暮らす前提で話が盛り上がっている三人を眺めつつ、私は彼に申し訳なくて居たたまれなかった。  グレイさんが日本にやって来てから、仕事をするのにも困るし国の税金も払えない、という国の損失部分を前面に押し出す形で両親が動いたせいか、半年もしない内に国籍取得の手続きが進んでいる。そして、未だに彼が帰れる方法は分かっていない。  私は、このまま帰れない可能性もある彼に、もういい加減本当の事を伝えねば、と伸ばし伸ばしにしていた件を思い気持ちを新たにした。  本音を言えば、彼が日本にやって来て一緒に暮らす間に、ドンドン私の好意も増してしまったのだが、やはりベースは男。いくらこれから女になるべく手術を重ねるとは言え、子供が産める訳でもないし、気味が悪いと思われる可能性がある事は想像に難くない。なまじ最初に彼からの好意があると分かっていただけに、裏切られたような顔をするグレイさんは見たくない、と先延ばしにしてしまっていた。  だが、このままでは彼も、私のせいでまっとうな出会いをするチャンスも逃してしまうかも知れない。それではダメなのだ。 「グレイさん、ちょっといい?」 「あ、マリアさん見て下さい! ひらがなとカタカナが全部書けるようになりました!」  努力家の彼は、日本で暮らす為には文字も読み書き出来なくてはならない、と子供用のドリルからスタートして、今では簡単な漢字も書けるようになっている。親とのメモのやり取りもスムーズにこなせるほどだ。マリア様と年上の男性から言われるのは恥ずかしいので呼び捨てでいいといったのだが、結婚するまで異性へ呼び捨てなどは出来ないと拒否され、さん付けになった。 「はい、何でしょうか?」  ニコニコと笑顔で私の言葉を待つ彼に、私は素直に打ち明ける事にした。 「あの、ね。話してなかったんだけど、グレイさんとは結婚出来ないと思うの私」 「えっ、ど、どうしてですか? 俺はこれから日本人になって一生懸命働きます! 絶対にマリアさんに苦労させたりしないです。それとも、好きな人が出来たとかでしょうか? 俺の悪い所あれば直しますから何でも言って下さい!」 「……黙っていてごめんなさい。実は、私は女じゃないの」  私は、キョトンとする彼に、トランスジェンダーである事を細かく説明した。 「えーと、つまり、マリアさんは体は男性だけど、心の中は女性、というちぐはぐな状況になっている、という事ですか?」 「そう。これからね、手術をして女性に近い状態になって、戸籍も女性にする予定ではあるんだけど、今は男なの。でも、手術をしても見た目がそれっぽくなるだけで、元から女性の人みたいに子供も産めないし、ホルモンバランスが狂って体調を崩したりする事もあるみたい。そんな訳で、貴方と結婚するのは難しいというか、気持ち悪いでしょう? だから、落ち着いたら一人暮らしでもして新しい出会いを──」 「良く分からないんですが、マリアさんはマリアさんですよね? その、女性になるシュジュツというのが体に良くない事もあると言ってましたが、それでもシュジュツをしたいんですよね、マリアさんは」 「そうね、女として生きて行くのが小さい頃からの夢だったから」 「それなら女性として俺と結婚すればいいじゃないですか? 俺はいつまでも待ちますし」 「……でも子供産めないよ? その、夫婦生活もちゃんと出来るかも……」 「マリアさんと居られれば幸せです」 「だけど、あっちではそういう人いないでしょう? 気持ち悪くない?」 「何故ですか? 男でも女でもマリアさんはマリアさんです。私は、あちらで浄化しているマリアさんを見ていて好きになりました。泣き言も愚痴も言わずにニコニコと子供や町の人間と話して、長時間歩いて浄化して、また次の日も次の日も。足のマメが潰れても布を巻いてまた歩いて。ずっと尊敬していました」 「グレイさん……でも、それは帰りたかったからだし自分の都合で──」 「それなら別に町の人とニコニコ話す必要もないし、見える部分の浄化だけサッサと終わらせて帰る事だって出来た筈です。でも、マリアさんは常に穢れの浄化の洩れがないか、生き物の救済洩れがないかをずっと気にしていました。自分が帰った後にまた広がったら大変だから、って。ああ、いい人だなあ、と。気がつけば恋に落ちていました」  穏やかな眼差しで私を見つめるグレイさんは、普段そんなに多弁な方ではない。私はこんなに長く話す彼を見るのは初めてだった。 「子供は望んでも産まれない人は沢山います。別に俺は男でも女でもどちらでもいいんです、だってマリアさんである事に変わりはないから。こんなに好きだと思った人は初めてなんです。だからずっと一緒に居たいし、隣で一緒に人生を過ごしたいんです。浮気も絶対にしませんし、体はこれからもずっと鍛えるので、具合が悪ければ抱えて歩きます。おんぶで一生移動する事になっても問題ないです。家の掃除や洗濯、料理も覚えます。だから、俺に戸籍が出来て、マリアさんも女性になって、結婚出来るようになったら、どうか俺を選んで下さい。きっと役に立てます。二人で生きた方が楽しいですよきっと。……あ、いやこれは俺が幸せで楽しいという事なので、面白い事が言えるとか笑わせるという約束は出来ないんですけどっ」  私は、慌て出した彼を見ながら笑った。笑いながら涙がこぼれてきた。 「マリアさん! 何か悪い事言いましたか俺? すみません、気持ちを伝えるのが下手で不器用だと昔から仲間に言われてました。良くない事があればいつでも教えて下さい、直します! ですから少しずつでも好きになって下さい、俺の事」 「好きですよ」 「……え? それは友達としての好きですか、恋人としての好きですか?」 「未来の旦那様候補としての好きですよ。でも、いいんですか? 本当に女性になったら、結婚してくれって言っちゃいますけど。諦め悪いんで私」 「諦められても困ります。楽しみに待ってます」  グレイさんがそう言って見せた笑顔は、それは神々しいまでに眩しくて、幸せそうで、ずるい程イケメンだった。
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