プロローグ

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プロローグ

「ええ、確かに私が桂木(かつらぎ)と結婚したのは金のため。ただそれだけですわ」  その女性は俺の目を真っすぐに見てそう言った。 「はぁ、なるほど。いろいろとご事情があったんでしょうなぁ」  取調室の無機質な空間に再び沈黙が落ちる。彼女の夫、桂木幸一(こういち)(52歳)は妻とテニススクールで懇意にしていたというサラリーマンの藤堂(とうどう)(たかし)(26歳)を刺殺して逃走。彼女は重要参考人としてここに呼ばれた。桂木幸一は自分と、藤堂は記録係をしている三島と同年代だ。まぁだからといってどうということもないのだが。それにしても今の彼女の言葉を聞く限り、桂木との結婚に愛などまったくなかったようである。 「借金を抱えた私の実家の会社、それを救うための金を出す代わりに私をよこせ、彼はそう提案したんです。私が二十歳、桂木が四十二歳の時のことでした」  まるで他人事のように淡々と語る彼女の名は桂木真奈(まな)、今年で三十歳になる。あちこちに傷を作り腕には包帯を巻いているのが痛々しい。夫の幸一は藤堂を刺殺する前、妻が不貞していると信じ込み激しい暴行を加えたのだ。だがその傷すらも彼女の美しさを損なうことはなく翳りのあるその微笑はかえって美しさを引き立てているようにすら見えた。 ――傾国の美女。  不意にそんな言葉が頭を過る。何か人を危うくさせるような、そんな魅力のある女性だった。 「小島巡査部長?」  記録係の三島が不審そうに俺の名を呼ぶ。どうやら少しぼうっとしていたらしい。 「ああ、すまない。奥さん、もう一度お聞きします。あなたと藤堂の間には何もなかったんですな?」  ふっと真奈は嗤う。 「もちろんですわ。お話することぐらいはありましたけど。調べていただけばおわかりいただけるかと」  確かにそうだった。彼女と藤堂の間に何かあったという証拠は全く出てこない。夫の勘違いだったのだ。勘違いで殺された藤堂という男は気の毒としか言いようがない。 「では、旦那さんの居場所に何か心当たりはありませんか」  幸一は藤堂を刺殺した後姿をくらましている。真奈は人差し指を顎にあて軽く首を傾げたまましばらく沈黙を続けたかと思うと、唇の端に薄く笑みを湛え妙なことを言い出した。 「ねぇ刑事さん、こんなお話知ってますか?」  真奈は俺の問いに答える代わりにある童話のようなものを語り始めた。
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