第11章 岩橋千塚と常世の仙果。龍追う人と幻の南葵楽譜

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「うん」 ユラさんがほとんど無表情で応対している。 最近は仲良くなって徐々に笑顔も含めていろんな表情を見せてくれるようになったけど、はじめの頃のユラさんはたしかにこんな感じだった。 けれど皮肉なことに、そんな無表情を装ったときこそ彼女の冷たい美貌がもっとも引き立つように思ってしまうのだ。 「今日はあんたも初めて聞くはずのやつやるさかいな」 「うん」 「あやかし封じの音階は、耳のええ人にもちょっとしんどいかもしれへん。せやけどあんたには最後まで聞いてってほしなあ」 「うん」 うわあ。ユラさん最低限の返事しかしてない。 仁王立ちの琉璃さんとの間に見えない壁がせめぎ合ってるみたいで、なんかもういたたまれない。 けど、琉璃さんはふと視線をわたしの方へと移した。 「貴女はたしか新しいパトロールの……。雑賀さん、でしたか?」 ユラさんへの態度とは裏腹に、やさしげに声をかけてくれる。ひゃいっ、とヘンな返事をしたわたしに、 「若い人にはもしかしたら退屈かもしれへんけど、難しいこと抜きにして楽しんでくださいね」 そう言ってにこっと笑った顔は、思いのほか愛嬌を感じさせるかわいらしさだ。 なかなかキャラを掴みにくい不思議な人だけど、ステージへと向かう後ろ姿を見送りながらユラさんがふうっ、と息を吐いた。 「……ああ、こわかった…」 ぽそりと呟いた彼女にわたしはびっくりしてしまう。 「こわかった?…んですか?そりゃあちょっと迫力ある感じでしたけど、そんなに?」 「うーん…。実は子どもの頃から知ってるんやけど。ほら、私は剣術のお稽古ばっかりしてたけど琉璃さんはそれ以上の厳しさで音楽やってきたさかい。畏怖の念というかなんというか……」 ユラさんが畏怖の念を感じるくらいの鍛錬って、いったいどれほどの厳しさだったんだろう。 思わずごくりと唾を飲み込む自身の音が聞こえた。 けど、堂々として自信に満ち溢れたように見える琉璃さんの立ち居振る舞いは、そうした積み重ねによるものなのかもしれない。 観客席を見渡すと、やっぱりというか当然というか、結界守や特殊な文化遺産の関係者と思しき人ばかりだ。 さすがに一般の方を招いての音楽会というわけにはいかないのだろう。 ステージ上では次々と楽団員が席に着き銘々のパートを繰り返している。 わたしはコンサートが始まる直前の、この時間が好きだった。 いくつもの楽器がそれぞれの理論でバラバラに音を奏でる様子は混沌としていて、まるで多くの野生動物たちが暮らす熱帯雨林を思わせる。 けれど、指揮者がタクトを一振りすることでそれは秩序をもったひとつの生き物へと変貌するのだ。 そんなにたくさんクラシックを生で聴いたわけではないけど、わたしにはそれが神秘そのものだった。 と、ステージに裏三社の結界守、琉璃さんが現れた。どうやらこの人がコンサートミストレスを務めるみたいだ。 オーボエ奏者がラの音を発し、それに合わせた琉璃さんに従ってすべての楽器がチューニングを施してゆく。 手元のプログラムを見ると、第一曲は「序曲『徳川頼貞』」とある。 これは頼貞公のケンブリッジ大学留学時代の恩師、エドワード・ネイラー博士の手によるものだ。 東京麻生の旧徳川邸に、日本初の本格的コンサートホール「南葵楽堂」が開設された記念の曲だったという。 一際大きな拍手がわき起こり、目を上げると指揮者が入場してきたところだった。 わくわくと、胸の高まりが最高潮に達してゆく。
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