第11章 岩橋千塚と常世の仙果。龍追う人と幻の南葵楽譜

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コンミスの琉璃さんと指揮者が握手を交わし、拍手がさらに大きさを増す。 それぞれの位置についた楽団員の間にピリッとした空気が張り詰め、着席した琉璃さんが指揮者に小さく頷いてみせた。 楽団に正対した指揮者がタクトを振り上げ、スンッという一瞬の呼吸音のあと両手を振り下ろした。 序曲・徳川頼貞――。 悠揚たる旋律が風土記の丘に響き渡り、ここではない遥か異国の旅路が心に浮かんでくる。 風格を感じさせつつも決して重くはない、気品と洒脱さを併せ持つゆったりとした曲だ。 奏でられるメロディに心地よく身をゆだねていたけれど、主題での不意の転調に意表をつかれてしまった。 なんて、楽しそうなの! 軽やかにスキップするかのような、小さな男の子が何か面白いものを見つけてキラキラと目を輝かせるかのような、なんともわくわくする旋律。 ああ、そうか。 これは大好きな音楽に日々胸を躍らせた、頼貞公の姿なんだ。 恩師のネイラー博士は、音楽に夢中な東洋の城主の末裔を、きっと温かな眼差しで微笑ましく見つめていたのだろう。 曲の背景も何もわからないけれど、わたしの心にはそんなイメージが後から後から湧き上がってきた。 演奏が終わったとき、ほぼ無意識に聴衆のほとんどが同時に立ち上がり、惜しみない拍手を送った。 指揮者の合図で楽団員たちが立ち上がり、一斉にお辞儀をする。拍手がさらに大きくなる。 去っていく楽団を名残惜しく見送ったわたしはプログラムに目を落とし、二部ではコンミスの琉璃さんが第1バイオリンでカルテットをやることを確かめる。 「さて、次からがあやかし封じの曲やね」 隣で発せられたユラさんの声に、一気に現実へと戻ってしまった。 すっかりコンサートを楽しんでいたけれどそうだった。これは音楽による地鎮の祭式でもあるのだった。 ふと見やると会場の周囲はいつの間にか、うつし世とかくり世のはざまを示す黒い膜で覆われている。 野外なのにずいぶんと音がよく反響すると思ったら、すでに結界の中にいたのだ。 「ユラさん、あの…今さらなんですけど。ここってそもそも何の鎮壇で、どんなあやかしから守ってるんでしたっけ?」 ほんとうに今さらな質問だったけど、ユラさんは怒るでもなく丁寧に説明してくれた。 いわく、この岩橋千塚古墳群にはかつて垂仁天皇の命により田道間守命(たじまもりのみこと)が常世の国からもたらした不老不死の仙果、"非時香果(ときじくのかぐのこのみ)"が封印されているのだという。 これは今ではみかんの原種の"橘の実"とされており、和歌山県海南市には田道間守命を祀る橘本神社(きつもとじんじゃ)があり、菓子や柑橘の神として崇敬されている。 が、この古墳群は本物の非時香果(ときじくのかぐのこのみ)を守っており、古来様々なあやかしがこれを狙って襲来してきたという。 さればこその厳重さで、三社と裏三社による強力な結界が張られてきたのだ。 「紀伊って全国的に見ても、すごく龍蛇の伝説が多いんよ」 続けてユラさんが、この仙果を求めて集まるあやかしのことを話してくれる。 それはまさしく、音楽をもって荒ぶる魂を鎮めることが最適と思わせるような物語だった。  
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