第11章 岩橋千塚と常世の仙果。龍追う人と幻の南葵楽譜

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あの楽譜、出して。 ユラさんの突然の言葉に、わたしはすっかり動転してしまった。 弾く?弾くって楽器を、だよね…? ユラさん楽器もできるの…? 「――あれをやるつもりなん?けどあの楽譜は完全やない……」 「琉璃、わかってる。けど今はそんなん言うてる場合とちゃう。それに南葵楽譜のすべては、"あの人"が身体で覚えてはるさかい――」 そしてユラさんは、胸の前で静かに印を結んだ。 「当代"由良"の名において請い願う。奏弦の御技、我に貸し与えたもう――。"紀由良(きゆら)"様!」 歴代の由良様?その中に、裏三社神人と同じく音楽による結界を操る人がいたということ? と、さっきまでユラさんだった身体に、まったくの別人格が顕現した。 これまで見てきた六代目、大膳大夫、十代目、いずれとも異なる魂の気配。 ふだん見知ったユラさんの顔なのに、その表情は初めて見る人のそれだ。 〈――ねえ〉 紀由良(キユラ)と呼ばれたその人が顔を上げ、わたしに向けて口を開いた。 〈もっと明るいリップにした方がいいわよ。かわいいんだから〉 ぽかん、と思考が止まったわたしに〈ふふっ〉と笑いかけると、キユラさんは琉璃さんはじめ楽団員に向き直った。 一瞬遅れてユラさんの顔をした人から「かわいい」と言われたことが、めちゃくちゃ恥ずかしくなる。 「"龍弦の奏者"、紀由良さまとお見受けします。私めは当代の裏三社結界守、鵜飼琉璃と…」 〈あー、そういうのいいから。あたしが呼ばれるのなんて演奏以外ないじゃん。持ってきて。ガッキ〉 片膝をついた琉璃さんの丁重な口上を遮り、キユラさんはめんどくさそうに言い放つ。 これは……やはり初めてのパターンだ。 「さきほどご当代が、この楽譜をと」 緊張した面持ちで楽団員の一人が古い楽譜を取り出した。 無造作にそれを受け取り、パラパラとめくるキユラさん。 〈途中のスコアまだ見つかってないの。あれどこいったんだろ。まっ、出だしだけわかればいいけど〉 そして琉璃さんが、恭しく自身のバイオリン…もとい、龍弦をキユラさんに差し出した。 ユラさんには対抗心を隠そうともしなかった彼女だけど、何やらキユラさんに対してはずいぶんしおらしく接しているようだ。 「どうぞ、紀由良さま。あなたのものでございます」 〈おっ。まだ使ってるの、このアンティーク。…あんたが?〉 「はい、おそれながら」 〈ふふっ。ちゃんと手入れしてんじゃん〉 そう言うとキユラさんはきっちりセットされた琉璃さんの髪を、子どもにそうするようにくしゃくしゃっと撫でてニッ、と笑った。 怒るのでは、とひやりとしたのは杞憂で、なんとしたことか琉璃さんは恍惚とした表情で頬を上気させているではないか。 おそらくキユラさんという人物は、音楽を操る結界守にとって特別な存在なのだろう。 〈あと、メイク。ドレス。急いで。……そう、アガるやつね〉 目まぐるしく、ソリストのための準備が整えられていく。 楽団員たちがこぞって取り囲み、キユラさんはまさしくこの結界に君臨するお姫様だった。 「雑賀先生。万が一の時に避難誘導の手伝いお願いしたいさかい、客席で待機してくれはりますか?」 琉璃さんの要請に応えて、わたしはコロちゃんマロくんと一緒に客席へと戻った。 この間にも2体の龍蛇は結界を破ろうと体当たりを続けており、不安に駆られる会場は騒然としていた。 と、ステージ上に、キユラさんがゆったりと歩んできた。 その姿を目にして、今度は別の意味で会場がどよめいた。 大胆にデコルテをあらわにした黒いロングドレス。 深い藍色のアイカラーが映える妖艶なメイク。 まるで、黒いユリの花が急に一輪咲いたかのようだ。 ステージ中央で観客に向き直ったキユラさんは、弓を逆手に持ったまま人差し指を唇に当て、 (しーっ) と声を出さずに静粛を求めるジェスチャーを行った。 魔法のように、間髪入れず会場が静まりかえった。
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