第11章 岩橋千塚と常世の仙果。龍追う人と幻の南葵楽譜

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しんとした会場内は、誰一人微動だにしなくなった。 けれど、巨体を結界へと打ち付ける2体の龍蛇は地響きを立て続けている。 キユラさんはすっと腕を上げ、手に持った弓でビシッとあやかし達の方向を指し示した。 〈「龍弦のためのパルティータ」、第1番――。"(たつ)追う人の火矢(ひや)"〉 そう高らかに曲名を宣言して優雅に構え、キユラさんの演奏が始まった。 低く、重く、呻吟するような弦の響き。 わたしの脳裡には一瞬にして、凶暴な龍に怯える人々の苦悩が描きだされた。 長い恐怖の時は琥珀色に積み重なり、その痛みにひたすら耐えることを強いられる日々。 だが、繰り返される旋律は徐々に音階を上げていき、やがて人々の胸に小さな抵抗の火が灯りはじめる。 と、急激な転調が起こり、激しく速く、勇壮なリズムへと変化した。 ついに人々は武器を取り、運命に抗うことを選んだのだ。 ああ。 これは――。 魔龍に立ち向かう、人々の小さな力を讃える曲だ。 強大な龍を前にある者は石礫で、ある者は手に持ったただの棒で。 が、時折聞こえるピチカートは、叡智を結集した奥の手の火矢が爆ぜる音のようだ。 人智を超えた圧倒的な災厄に、ほんのわずかな棘でちっぽけな抵抗を続ける。 けれど夥しい数のヒトによる全身全霊の抗戦に、やがて龍はじりじりと後ずさりを始める。 さらに加速していくリズムに身を委ね、まるで全身が楽器になったかのようにキユラさんは龍弦を奏でる。 美しくも鬼気迫るその姿に、会場の皆が忘我の境地で魅入られていた。  いつの間にか、2体のあやかしはその動きを緩めている。 まるで龍弦の音色が巨大な網と化して龍蛇に絡みつくかのように、もはや結界に体当たりする勢いは削がれていた。 キユラさんの瞳がより鋭い光をたたえ、曲はそこからさらに加速してゆく。 まだ、まだ、まだ、まだ! もっと!もっと!もっと! およそヒトに可能な速さとは思えない超絶技巧で奏でられる、龍追いの旋律。 客席から、キユラさんの両手の爪にぴしっと亀裂が走るのが分かった。見る間に鮮血がにじみ出したが、彼女はその手を決して緩めない。 一際高く鋭く龍弦が叫び、フィニッシュと同時に限界を迎えた弦がバツンッと断裂してしまった。 その瞬間、動きを止めていた2体の龍蛇は、まるで無数の桜の花びらが風で吹き散るかのようにその身を消滅させていった。 (あわい)を示す結界の黒い膜にヒビが入り、ガラスのように砕けて本来の青い空から光が差した。 「ブラヴォーーーッ!!」 幾人もが同時に叫び、会場は総立ちとなって万雷の拍手が巻き起こった。 気が付くと隣にはいつの間にか琉璃さんがおり、彼女も惜しみない拍手を送って、そして涙を流している。 怒涛のような喝采のなか、ほつれ毛を指先でかきあげたキユラさんと、視線がぶつかった。 彼女は口の端を上げて不敵に笑うとわたしにピッと弓を向け、ぱちんと片目を瞑ってみせた。 拍手はまだずっと、鳴り止まずにいる。
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