終 章 那智決戦、果無山のあやかし達と不死の霊泉

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ふと、何者も入っていない湯壺が目に入った。 〈そこへ。傷口が浸かるまで沈めてあげて〉 シララさんの声に従い、夢中でユラさんを抱え上げてそこへ運んだ。 湯にその身体を滑り落とすと、胸から流れる血で泉が真紅に染まり、いたたまれない気持ちになる。 〈あかりさん、急いで戻って。真後ろに向けて、ただ真っ直ぐ走るの。決して、振り返らないで――〉 一人霊泉に沈むユラさんに後ろ髪を引かれながら、シララさんの言葉通り真っ直ぐに蒸気の中を駆け抜けた。 先に見える明かりが強まり、完全に煙が晴れたとき、わたしは元きた那智の滝前の結界内へと戻っていた。 〈お姉ちゃんがどうなるか、わたしにもわからない。けど、できることはこれですべて〉 そこにシララさんの姿はなく、先ほど同様に声だけが天から降ってきていた。 〈名残り惜しいけど、もう行くわ。"桂男(かつらおとこ)"が待ちかねているから〉 少し自嘲するような響きで、彼女が囁く。 でもまだ、聞きたいことがたくさんあるのに……! 〈わたしはヒトの味方ではないけれど、人間に絶望はしていない。あやかしとの間のグレーな存在として、これからもどう在るべきかを探り続けるわ。……お姉ちゃんのこと、ありがとう。また逢いましょう。雑賀あかりさん――〉 シララさんの声が消えると、結界を覆っていた黒い膜が次々と剥がれ落ちていった。 外部に待機していた他の裏熊野神人たちがなだれ込み、負傷者の救護でにわかに騒然としだした。 オサカベさんが担架で運ばれていく。 神人たちがわたしにもしきりに声をかけてくれているが、ぼんやりとして耳に入ってこない。 連続射撃で赤熱した銃身を握った手は焼けただれていたはずだけど、霊泉に触れたためか跡形もなく治癒していた。 今ここにユラさんがいないこと、そしてうつし世の空があまりにも青いこと。 それだけがわたしの心を占めていた。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 「伊緒さん、それではお世話になりました」 cafe暦のカウンターで、わたしはぺこりと頭を下げた。 あれから半年、霊泉でのユラさんの状態は裏熊野と特務文化遺産課がモニターしているらしいけれど、詳報はまだない。 わたしも何度も湯の峰へと足を運んだけど、とうとう結界を超えて彼女に会うことはできなかった。 そして、わたしに一通の書状が届いた。 "北海道教育委員会 特務文化遺産課" そうクレジットされた書類には、故郷の北海道で結界守サポートの任に就く要請が記されていたのだ。 結界の存在は、紀伊だけのことではない。 そしてその弱体化とあやかしたちとの生存バランスの変化は、対応すべき急務とされている。 結界守の本場たる紀伊での経験を評価され、スカウトされたというのが大筋だ。 ユラさんのこと、生徒たちのこと、ゼロ神宮とこのお店のこと。 数え上げればキリのない心残りを振り切って、わたしはその誘いを受けた。 その時自分にできることを、ただ精一杯行う。 ユラさんなら、きっとそうすると思ったから。 ずっと彼女の留守を預かってくれている伊緒さんに、cafe暦の奥向きを預かる氏子さんが何と説明しているのかは知らない。 けど伊緒さんは何も聞かず、いつも明るくお店を切り盛りし続けてくれた。 これなら、いつユラさんが戻ってきても何の心配もいらない。 伊緒さんは最後の挨拶に訪れたわたしの手を握り、やさしい姉のように微笑んだ。 「わたしはここが第2の故郷だから。いつでもここで待ってる。したっけ、元気でね」 そしてわたしの耳元に口を寄せ、小声でこう言った。 (ユラさんはきっと大丈夫よ。熊野は、"よみがえりの地"ですもの) 驚くわたしに伊緒さんは片目をつむってみせ、小さく手を振って見送ってくれた。 ちゃんとわたしたちのことを分かった上で、知らないふりをしてくれていたんだ。 お店を出たわたしは、その横の長い石段に足をかけた。 思えばここにお参りしてから約1年、すごくすごく濃密な時間を過ごしてきた。 鳥居をくぐり、手水舎で身を清め、拝殿に立って鈴の緒を引いた。 からんころん、と涼やかな音が立ち、柏手を打って祈りを捧げた。 どうかユラさんが、元気になってこの世に戻ってくれますように――。 と、本殿の扉前でなにかがこそっと動くのが見えた。 何だろうと目を凝らすと、もこもこした2つのかたまりがいる。 ふいっと振り向いたそれらは、動物の赤ちゃんのようだ。 茶トラの猫と、小さなカワウソ――。 「コロちゃん!マロくん!」 わたしは本殿に向けて身を乗り出した。 その子たちは、 「にー」 「きゅい」 と返事をし、ひよひよふるふると本殿の裏へといってしまう。 追いすがるように駆け込み、わたしも本殿裏へと回った。 けれど、そこには何もいない。 振り返ると、高くなったこの場所から紀北の町並みが一望できた。 大きな川が流れ、山々に囲まれたこの町。 少し強く風が吹き、あの日と同じ雪のような桜花が舞い散った。
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