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強い――。
何が起こったのかはまだうまく飲み込めないけれど、豹変した由良さんのおかげで危機を脱することができた。
何か声をかけなくてはと思うが、あまりのことに言葉も出ず、足腰にもまったく力が入らない。
すると、土間の床に突き刺さったままの南紀重國に由良さんがすうっと近付いて、おもむろにその柄を握った。
力を込めてずずずずっとそれを引き抜くと、眼前に掲げるようにしてしげしげとその刀身を愛でた。
〈いたわしいの、重國。かような姿に成り果てるとは。"影"であることが気に食わぬと申すか。……さもあろうな。なれば、せめて……血を吸うか〉
由良さんはそう言うと、前のめりに倒れていた凶漢を足蹴にして仰向けにし、あろうことか重國の切っ先をその胸に突きつけた。
まさか。殺生をしないために峰打ちしたのではなかったのか――。
驚愕して彼女を見上げると、長い髪にその表情は隠れているものの、うっすらと口角が吊り上がっている。
〈さぞや不味かろうに……。くっ、くくくく…〉
由良さんの姿をした"何か"は忍び笑いをもらすと、真下の男を刺突する構えのまま、矢を放つかのようにきりきりと肘を引き絞った。
「ユラさんっ、だめえっ!!」
わたしがそう叫んだ瞬間、土間の扉が勢いよく蹴り破られ、強烈な光が射し込んできた。
眩しさに思わず顔を背けたが、視界の隅には光に剣先を向け直す由良さんと、拳銃のようなものを構えた細身の人物の影が見えた。
「あ……オサカベ…さん…?」
それはご当主が「トクブンの刑部さん」と呼んでいた、わたしをこの仕事にスカウトした人。
和歌山県教育委員会、特務文化遺産課の刑部佐門さんだった。
刑部さんは注意深く土間内の各所に銃口を向け、状況を確認すると由良さんに正面から向き直った。
そして彼女の前に片膝をつき、丁寧に銃を置くと一礼して口上を述べた。
「高名なる六代目のお由良様とお見受けいたす。お初にお目にかかりまする。それがしは刑部佐門、当代の"狩場刑部左衛門"を預かりし者」
ぴくり、と由良さんの表情が動いた。
重國の切っ先は刑部さんに突きつけたままだが、明らかに興味を引かれたような声で問いかける。
〈当代の…"かりばぎょうぶ"と申したか……?〉
「いかにも。今生ではかような身なりにて」
〈くっ…はは。"たたら狩り"ともあろう益荒男が、なんと文弱な……〉
「六代目様にはお力添えを賜り、当代の由良に成り代わり御礼申し上げまする。さりとて抜き身の重國とは、恐ろしゅうてなりませぬ。生き血よりもよいものを供えますゆえ、ここはお納めくださりませぬか」
刑部さんはそう言うと立て膝のまますすっと移動し、転がっていた南紀重國の鞘を拾うと、由良さんの前に差し出した。
突きつけられた切っ先のすぐ側まで顔を近付け、鞘の鯉口を向けて納刀を促している。
ごくり、と自分が唾を飲み込む音が聞こえた。
〈……ふん〉
由良さんが、そのまま刀で刑部さんの顔を突いたように見えて、わたしはまた悲鳴をあげそうになる。
けれど、重國の長刀は差し出された鞘に音もなく収められ、受け取った刑部さんが恭しくそれを押し戴いた。
〈よかろう、久々に憂さも晴れたわ。わらわも多少疲れた。せいぜい当代を労ってやることよな。以前は、わらわの剣に身体が保たなかったであろう。いずれ、まみえようぞ。"刑部左衛門"……〉
そう言い残すと由良さんの体は力を失い、ゆっくりとその場に崩折れていった。
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