第3章 血縄の主の大鯰と、裏隅田一族の大宴会

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大鯰が尾を一振りして身をよじると、それだけで川は荒天の波濤に変じた。 主がその胸鰭を水面に叩き付けると、衝撃で何人もの武士が舟から投げ出される。 おぉぉぉぉっ、と地響きのようなどよめきが起こり、川縁に居並んだ隅田党の御魂たちがすっかり興奮している。 川面を縦横に暴れまわる大鯰に、残った武士たちが舟上から槍を突き出し、あるいは次々に銛を打ち込む。 ますます荒れ狂う主の前に、やがて一人の益荒男が立ち塞がり長槍を構えた。 鎌倉幕府第五代執権、北条時頼――。 鯰の上流に回り込んだ舟は流れの勢いを利用し、信じられない速度で主との間合いを詰めていく。 時頼は槍を大きく肩に担ぎ、引き絞り、やがて舟の速度に乗せて力の限り大鯰へと打ち込んだ。 武士たちのどよめきは最高潮に達し、銘々が太刀の柄を打ち鳴らして神と人との力競べを讃えている。 紀ノ川の主たる大鯰は動きを止め、そのままゆっくりと下流へと泳ぎ去っていった。 水面には美しい鮮紅色の血がたゆたい、まるで一筋の縄であるかのように川を彩った。 「だいじょうぶやで。神さんやさかい、ほんまは痛くも痒くもないんえ。今年もようほたえはったなあ」 わたしの隣のお婆ちゃんが、そう言って拍手をしている。「ほたえる」は、たしか暴れるとか騒ぐとかいう意味だ。 血を流しているのでびっくりしてしまったが、神霊たる大鯰に肉体的なダメージはないという。 その荒ぶる魂を解放して力の限り戦った歓びの記憶を、何度も何度も再現しているのだそうだ。 下流へと去っていく大鯰に向けて、ユラさんが進み出た。 手にはなにか特別なお膳を掲げており、神霊への手向けであることが感じられた。 〈至心発願するところの、大膳大夫・橘由良(たちばなのゆら)。当道場において申して(もう)さく――〉 朗々と響く艶のある声は、わたしの知っているユラさんのものではなかった。やはり、以前に六代目と呼ばれた人格を解き放ったときと同じなのだ。 大膳大夫といえば、朝廷で饗応や食料調達などを司る機関の長官ではないか。 ゆかしい唱えごとの声に、いつしか川縁に居並ぶ隅田党の御魂も、流れゆく大鯰に向けて頭を垂れ、徐々にその姿を消していった。 後には裏隅田さんの一族が座礼の姿勢をとっており、次々に立ち上がると左右に分かれて、ユラさんたちが引き上げるための花道をつくった。 儀式を終え、ゆっくりと元来た道を戻るユラさんと二人の護法。 ふいに、ユラさんがわたしの元へすっと身を寄せ、 〈当代をよろしう。あかり嬢〉 と耳元でささやいた。 大膳大夫と名乗ったその人は、びっくりするわたしに向けて片目を瞑ってみせ、悠々とした足取りで屋敷のほうへと姿を消していった。
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