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「お飲み物はいかがですか」
女性マスターが、クールな佇まいそのままなイメージの声でそう聞いてくる。
愛想笑いもなにもなく、近くで見るととてもハンサムな顔立ちの人だ。
「わたし、実はあんまり詳しくなくって……」
バーに連れて行ってもらったことはあっても、一人で入るのは初めてだ。
「ではお任せでいかがでしょう。日本酒ベースのオリジナルがあるのですが、お作りしても?」
おすすめに頷くと、マスターは初めて少し微笑んで流れるような手さばきでくるくるとお酒を調えた。
種類の違う液体がグラスに注がれ、混じり合っていく様子は何かの儀式のように神秘的だった。
「どうぞ」
目の前に供されたカクテルグラスの中身は透明だけど、縁にはうっすらと白い粉が積もりカットしたバナナが飾られている。
「おいしい…!」
ひと口含んだ瞬間、フルーティーなバナナの香りが広がって、緊張の糸が一気に緩むのがわかった。
あまく、やわらかな余韻がやさしい。
塩かと思った白いものは、粉砂糖のようだ。
「宵庚申、といいます」
「よい…こうしん?」
「はい。60日に一度おとずれる、庚申(かのえさる)。人が眠っている間に体から三尸の虫が抜け出し、日頃の行いを天帝に告げに行く日。なのでかつてこの日には、眠らずに夜を明かす庚申講が行われました」
彼女の話に、わたしは思わずぎくりとした。
まさしく今夜ここを訪れた目的に通ずることだ。
何もかも見透かされているような感覚に浸りながら、わたしはことの次第を語りだした。
――わたしは今年の初めに、高校の歴史科の非常勤講師としてこちらに赴任してきました。
出身は北海道ですけどご先祖は紀州の人で、「雑賀」の苗字はそれに由来しています。
教師として祖先の地を踏むのは感慨深くて、非常勤ながら生徒たちもすごく可愛くって、すっかり和歌山が好きになっちゃいました。
何校かを掛け持ちしているのですが、そのうち公立の一校で事件があったんです。
あの大きな古墳が隣にある……そう、「陵山古墳」ですね。
そこでその、通学路に猿が出て生徒を襲う、と言われてて……。
危ないので教職員にも周知されて、生徒にもなるべく遅くならないうちに集団で下校するよう注意していました。
ところが、わたしが遅くなったときに古墳のある公園を通ると、女生徒のひとりがじっとそこに佇んでいたんです。
驚いて声をかけると、彼女はなにやら不思議なことを言いました。
"雑賀先生、猿とちゃうと思います。
まっとおとろしい何かが、いてるんです。"
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