第4章 空海の大蛇封じと、裏高野の七口結界

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「せやけど、こないなった以上は確かにオサカベさんの言う通りじょ。ユラさんらと一緒におったしか、なんぼか安心やして」 そう言って、わたしのことをよくよく頼んでくれたのも岩代先生だったそうだ。 見た目はバンカラだけれども、ものすごく面倒見がよくて在学生ばかりか卒業生からもいまだに慕われているのだ。 「ほんでねえ、今日寄せてもろたんはほかでもないんよ。ユラさん、ちょっと高野山へいてってくれへんか」 「いてって」が「行ってきて」の意味だと遅れて気付いたわたしにもわかるように、岩代先生がゆっくり語ったところによるとこうだ。 山と海に囲まれた紀伊の国には名だたる霊場があり、常時結界が張り巡らされている。 もちろんそこには、ユラさんのような結界守(けっかいもり)の存在も欠かせない。 しかし今、紀伊の各所で同時にいくつかの結界が力を弱め、あやかしの引き起こす怪異な事件が県下で多発しているのだという。 先日の陵山古墳に出現した鬼たちや、妖刀となった南紀重國の封印が簡単に解かれたのも、どうやら結界の弱体化が関係しているらしい。 「裏高野の七口でも突然結界が破れたとこがあって、ほれ、黒河道(くろこみち)の龍仙寺さんじょ。あっこは先だって住職代わって、先代の孫が継いだんやけど、少々頼んないらしんよ。顔合わせがてらに、結界張り直すんてっとうたってよ」 それを聞いたユラさんは、カウンター下から一冊の和綴じ本を取り出した。 わたしが初めてここに来たとき見せてもらった、「完全な暦」だ。 ユラさんの細い指が頁の上をすうっと滑って、文字列をなぞっていく。 「杣山入吉日……。甲辰…丙午…丙子…丙辰…丙寅…丙戌…丁未…戊寅…戊申…己酉…庚辰…庚戌…辛酉…壬申…壬寅…癸未…癸丑…癸巳……」 なにやら呪文にしか聞こえないけれど、おそらく日ごとに割り振られた十干十二支の組み合わせだ。 "六十干支(ろくじゅっかんし)"と呼ばれるこれは陰と陽、そして木・火・土・金・水の"五行"の属性関係を表しているという。 本来は陰陽道で日々の吉凶や行動を占うために用いられ、現在では詳しいカレンダーにその痕跡が残っている。 そういえば子どもの頃、おばあちゃんちにあった日めくりカレンダーにはそんなことが載っていたような気がする。 よくわからずに眺めていたけれど、ユラさんが結界守の仕事を行う際には本来の暦である"旧暦"から日取りを決める必要があるとのことだ。 このお店の「(こよみ)」という名は、ユラさんの前任者がそうしたことから命名したのだという。 綴じ本の頁の一点でユラさんの指がぴたりと止まり、ゆっくり円を描いた。 「あかり先生。次の週末、あいてはる?」 地名とか固有名詞とかほとんどわからないことばかりだったのだけれど、かくしてわたしはユラさんにくっついて高野山を訪れることになったのだった――。
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