第4章 空海の大蛇封じと、裏高野の七口結界

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怪音が響いてくる地点に着くと、そこは浅い谷筋になっていた。 立ち込める霧でよくは見えないが、ずっと下の方から急角度で山上付近まで道のように切れ込んでいる。 ユラさんと龍海さんは谷を降りて向こう側へと渡り、こちらに残った2童子とともに術式を始めた。 途切れ途切れにユラさんの祝詞と龍海さんの真言が混ざり合って聞こえ、コロちゃんとマロくんはそれに和してしゃん、しゃん、しゃん、と錫杖を突き鳴らしている。 ――かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに―― しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、 ――ノウマク サァマンダァ バァザラ ダン センダァ マァカロシヤダァ―― しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、 ――ソワタヤ ウンタラタァ カンマン! ふいに、耳の奥にきんっと鍵のかかるような音がした。 ぞわりと身体にまとわりつく悪寒は、谷の下の方から這い登ってきている。 ズズズズッ、ズズズズッと急傾斜を蠢くそれは、濃い霧の向こうに2つの赤いライトのようなものを灯している。 その巨大な影が目前まで迫ったとき、わたしはこの山に登ってきたときのケーブルカーを思い出した。 けど霧をまとって頂へと取り付こうとしているのは、列車のようなサイズの黒い蛇だった。 ぬらりとした無数の鱗が微細に振動し、長大な腹をくねらせて霊山の結界を破ろうともがいている。 ライトかと思ったそれは爛々と輝く眼玉で、炎のような舌先を出し入れしてゴウッと吼えた。 わたしは声を出さないよう、自分で自分の口を固く押さえた。手に持ったお数珠の玉が唇を圧迫したけど、もはや痛みなどわからない。 ――ノウマク サァマンダァ! バァザラ ダン センダァ! マァカロシヤダァ!―― 真言を唱える声が一際強く大きくなり、大蛇の鼻先がすぐ目の前へとかかった。 錫杖の音もいよいよ鋭さを増し、大蛇はまるで見えない網にでもかかったかのようにその動きを鈍らせた。 "鎮まれ"と一心に念じるよう言われたことを思い出し、二人の護法の後ろでひたすらそのことだけを考える。 ――ソワタヤ! ウンタラタァ! カンマン! 対岸では鬼の形相の龍海さんと、ユラさんが印を組んで決死の呪文を唱え続けている。 龍海さんの額には太い血管が浮き上がり、ツッ、と鼻から一筋の血が流れた。 大蛇は、それでもゆっくりと上昇を続けている。 4人が全身全霊で張っている結界を振り切るかのように、ズズッ、ズズッ、とその巨体を押し上げていく。 だめだ、破られてしまう――。 お願い、鎮まれ!鎮まれ!鎮まれ――! その時、山の上からしゃりん、と涼やかな錫杖の音が聞こえた。 ゆっくりとそちらを振り仰ぐと、そこには渋みがかった黄色い法衣の修行僧が。 そしてその両脇には、全身の毛を逆立てて唸りをあげる、白と黒の2匹の犬が。 ゴウッ、と二匹が同時に咆哮する。 僧が激しく錫杖を突き鳴らし、4人の真言に唱和する。 さっきまで決して動きを止めなかった大蛇が一瞬ぴたりと静まり、そして見えない大力に締め上げられるかのように震えだした。 ――ああ。 なんて。 なんて美しい、声――。 こんな時なのに、わたしは龍海さんとユラさん、二人の護法、そして山上の僧が唱和するそのハーモニーを心から美しいと感じていた。 ――ソワタヤ! ウンタラタァ! カンマン! わたしが無意識にその真言を一緒に叫んだ瞬間、僧は高々と掲げた錫杖を大蛇に向けて振り下ろした。
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