第4章 空海の大蛇封じと、裏高野の七口結界

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がくん、と大蛇が巨大な重力にでも押しつぶされるかのように、真下へとひしゃげた。 山上の僧がさらに錫杖を振り下ろすと、大蛇は谷筋の地面にその巨体をめりこませた。 その一瞬の隙をつき、白黒2匹の犬たちが矢のように駆け降りて、左右から大蛇の眼玉に襲いかかった。 雄叫びをあげる大蛇に向けて、僧が追い打ちの錫杖を一閃させると、その蛇体は完全に谷へとめり込んでしまった。 「臨っ!!」 その瞬間を逃さず、龍海さんが人差し指と中指を揃えて立てた印を横薙ぎしながら叫ぶ。 「兵っ!闘!者っ!皆!陣っ!列!在っ!」 さらに縦横に連続して斬り刻むかのように印を振り、渾身の動作で、 「前っ!!いぃぃぃぃえいっっ!!!」 と斬り下ろした。 その瞬間、谷底でひしゃげた大蛇はバンッと破裂して、そのまま黒い煙へと変じて消滅していった。 後には元のままの谷と、相変わらず乳白色の濃霧が立ち込め、まるで何ごともなかったかのような静寂。 対岸では身も魂も擦り減らし、龍海さんもユラさんも仰向けに倒れて荒い息をついている。 目の前ではコロちゃんとマロくんが、くらりと傾いたかと思うと、その身を本来の猫とカワウソの姿へと変じて地面に身を横たえた。 「あかりん…怪我はないかい…」 「ちょっと……休憩…」 みんなが無事で、わたしは涙があふれてきた。 と、そこへ"はっはっはっはっ"と元気な息づかいが聞こえ、白と黒のわんこたちが霧を分けて駆け登ってきた。 「わあ……ありがとう、ありがとうございます。シロちゃん、クロちゃん」 神使に勝手に名前をつけちゃったけれど、きっと気になどしないだろう。 顎の下を撫でてあげると、2匹とも尻尾を振って気持ちよさそうに目を細めた。 「うん?どうしたの、なにかほしいのかな」 わたしが背負いっぱなしだった小さなバックパックにわんこたちが顔を寄せ、ひこひこと鼻をうごめかしている。 食べものあったかな。この子たちになにかあげたい。 ジッパーを開くと、袋入りの羊羹が2つ出てきた。行動食にと携えてきたものだった。 「こんなの食べる…?神さまのお使いならだいじょうぶかな」 羊羹を見せるとわんこたちはさらに大きく尻尾を振り、くんくんと鳴いた。 差し出すと袋の端をそっとくわえ、くるんと回って"わう"と一声残すと、2匹は斜面の上へと矢のように駆けていった。 山上には、あの修行僧がじっと佇んでいる。 「ありがとう……!ありがとうございました!」 わたしが手を振りながら力いっぱい声をかけると、僧は片手でちょっと笠を傾げ、踵を返して濃霧の向こうへと姿を消した。 後には錫杖の"しゃりん"という音と、"わんわん"と2匹のわんこが鳴く声が、一度だけ耳に届いた。 「――それはやっぱり…完璧にお大師さんやんな」 奥の院の御廟へと向かう橋を渡りながら、ユラさんがしみじみと言う。 あの後息を整えた龍海さんはユラさんを背負い、わたしは動物姿のコロちゃんとマロくんを抱いて龍仙寺へと戻った。 4人とも術式の途中はすべての集中力を傾け、大蛇を封じた直後には力を使い果たしていたため、空海のような僧と2匹のわんこはついぞ見ていないという。 ただ、もう駄目かと思いかけたその時、何かとてつもなく大きな加護のようなものを感じて最後の法力が漲ったのだそうだ。 お寺に戻ったわたしたちに龍海さんは心尽くしの礼を述べ、その後てづくりのカレーを振る舞ってくれた。 なんと、お肉の代わりに厚揚げを使ったお寺らしさで、このおいしいカレーはわたしにとって人生初の精進料理となったのだった。 龍仙寺を後にしたわたしたちは、弘法大師・空海の御廟に参ることにした。 順番が逆とはいえ、火急の事とお大師さんも許してくださるだろう。 奥の院の霊気は、想像をはるかに超える静謐さだった。 ただでさえきりっとした山上の空気が、苔むしたあまたの石塔と数百年を歳経た杉の大樹とあいまってさらに冷たく感じられる。 御廟は奥の院の最深部、無数の灯籠が下がる御堂を抜けたところにあった。 お香の香りが立ち込め、人々が静かに、そして熱心に祈りを捧げている。 御廟は神社の拝殿みたいな造りで、軽く見上げる高さにある門の向こうに、空海がいまも生身のままで禅定しているのだ。 高野山やその周辺では、だから空海が寂滅したとはいわず、"入定(にゅうじょう)"したと表現するそうだ。 あらかじめ脱帽していたユラさんとコロちゃんマロくんは御廟に向かって合掌し、 「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」 と唱えた。 わたしもならって、なむだいしへんじょうこんごう、と繰り返す。 と、御廟の門前の供物に、見覚えのあるものがあった。 それは、端に牙のような歯型が付いた、2袋の羊羹だった。 わたしはすっかり嬉しくなって、もういちど「なむだいしへんじょうこんごう」と元気よく唱えた。
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