第6章 丹生都姫と八百比丘尼、裏天野の無陣流剣術

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第6章 丹生都姫と八百比丘尼、裏天野の無陣流剣術

小糠雨があじさいを艶やかに濡らし、幾億もの水滴がその球に世界の形を映し出している。 樹々の間を縫って次から次に湧き立つ霧は白く清浄で、小さな龍に姿を変じてたゆたうかのようだ。 初夏とはいえ、雨に降り籠められたここは寒い。 紀伊国一之宮、丹生都比売(にうつひめ)神社が鎮座する天野の里は。 小屋根の(ひさし)から無限に落下する雨垂れを、ただぼんやりと眺め続ける。 その向こうには見事な半円を描いた太鼓橋が優美に横たわり、それが架かる鏡池には夥しい波紋が生まれては対消滅を繰り返している。 わたしは、ほうぼうが擦りむけて赤くなった冷たい両手にほうっと息を吹きかけた。 そうして道場の木床に直立し、全身の力をゆるめていく。 目を閉じて、 耳を澄ませて、 呼吸を整えて。 再び目を開くと同時に、腰の小太刀をゆっくりと横薙ぎに抜き放った。 その太刀筋はとりとめもなく、天から遣わされた無窮の雨滴へと吸い込まれていくばかりだった――。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 あの夜bar暦に招待してくれたユラさんは、わたしにあやかし文化財パトロールの任から降りることをすすめた。 実際にはすすめたのではなくて、頭を下げて頼んだのだ。こんなわたしに向かって。 行きがかりであやかしたちと結界守の世界に関わることになったわたしの身を、ユラさんはずっと案じ続けてくれていた。 その懸念は先日の和歌山城襲撃事件で覆しようもなくなり、実際にわたしだけではなく多くの結界守たちが命の危険にさらされた。 けれど、わたしは気に入らなかった。 守られるだけのわたし自身が、そしてそれらをすべて背負って涼しい顔を装っている、ユラさんのことが。 この時わたしは、いつの間にかだいぶ飲んでいたようだった。ユラさんが魔法のように調えてくれる、日本酒ベースのカクテルがあんまりおいしかったせいもある。 でも、どういうお話か見当がついていたこともあって、かなりのペースでグラスを空けていたのだ。 「護法童子の加護があれば、今ならあかり先生はこれまでの日常に戻れると思うんよ。どうか、これ以上は私らとは関わらんようにしてほしい」 そう言って頭を下げたユラさん。 きれいな眉が苦しげに顰められているのを見て、わたしの中の何かがぷつんと途切れてしまった。 ――ああ、お前、ほんとに、イケメンだな。 結婚してくれよ――。 はっきりそう思いながら、わたしはそこにあった地酒を手酌でグラスになみなみと注いだ。 おむ、おむ、おむ、と子ども狂言みたいな音を立ててそれを飲み干す。 「ちょっ…あかり先生…?」 ユラさんがびっくりして顔を上げた。 そうだろ、びっくりしただろ。 「……なあんもよう」 わたしは空のグラスをだんっと置いて、このイケメンにお説教をすることにした。 「おめえよう、はんかくさいんでないかい」 「はんか……えっ…?」 ユラさんはまさしく鳩が豆鉄砲を食ったという、初めて見るような顔をしている。 うん、いいぞ。 自分ではかなり冷静なつもりだったのだけど、後でユラさんに聞いたところによると、この時のわたしは「ただならぬ仕上がり」だったそうだ。
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