第6章 丹生都姫と八百比丘尼、裏天野の無陣流剣術

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"比売(ヒメ)"という名の通り、丹生都比売は女神だとされている。 大きな鳥居越しに遠望される楼門は壮麗ながらどこか女性的で、もし予備知識なく参拝したとしても、きっとここには女神が鎮座していると感じるのではないか。 高野山と非常に縁が深いことは先に述べた通りで、かつては境内地に仏教建築も建ち並び、神仏習合のひとつの完成形といっても過言ではないだろう。 明治の神仏分離令でその影響は受けたものの、現在でも高野山で100日の行を経て僧侶になった者は、丹生都比売の加護を願って札を納めに来る伝統があるという。 わたしが借り受けている小道場からは、すべての戸を開けると丹生都比売神社へと至る太鼓橋が見える。 見事な半円のアーチを描いた優美な古式橋で、鏡池という名の池に映って円になる光景が、たまらなく好きだった。 雨の中、天野の里を歩き回った後は必ずこの橋の頂点で、ぼんやりと池の波紋を眺めるのが心安らぐひと時となっていた。 この日も、棒のようになってしまった腕をだらりと下げて、太鼓橋の上から道場のある林側の池を見下ろしていた。 神社の方には時折出会うものの、裏天野の門人として扱われているわたしには深く関わらない習わしだそうで会釈を交わす程度だ。 村の人も同様で、ほとんど人と出会うことはない。 が、そろそろ道場に戻ろうとしたわたしはふいに誰かの気配を感じ、後ろを振り向いた。 するといつの間に上ってきたのだろう。そこには大きな白い傘に、同じくふんわりとした白い帽子とワンピースという出で立ちの女性が佇んでいた。 わたしとは反対方向の、池中の小島がある方へとスマートフォンを向けている。 景色を撮影しているのかと思ったけどどうやら自撮りをしているようで、角度の加減からインカメラで写し出された彼女の顔が画面に見えた。 ずいぶんと若いようだ。 17〜18歳くらいか、高校生のようにすら見える。 ふいに、彼女がこちらを振り返った。 「こんにちは」 にこやかに挨拶してくれたその声は、幼い見た目からは想像もできないほどの深みを帯びた、琥珀色の響きをもっている。 「もしかして、剣術修行のお弟子さん?」 小首をかしげて、人懐っこく聞いてくる。 こちらに向けた身体は華奢で、本当に少女のようだ。 けれどその顔は角度によって幼くも、また歳経たようにも見える不思議な人だ。 「はい。あの…ご存知なのですね」 「ええ。昔はね、たくさんいらしたのよ。懐かしいわ。あそこで修行される方は、ずいぶんと久しぶりではないかしら」 「そう…なんですか。あ、あの。わたし、雑賀あかりと申します」 少女にしか見えない目の前の女性が「昔」という言葉を使ったので、もしかするとわたしが想像するよりずっと大人なのかもしれない。 そう思い直して、勢い丁寧な口調になる。 「あかりさん。いいお名前ね。私は……そうね。"ちとせ"、と呼んでくださいな」 そう言って微笑むと、ちとせさんはぱたっと傘を畳み、くるんと巻いて片手で構えてみせた。 「…これのお稽古をしていたのでしょう?」 わたしに当たらないよう逆方向へ、手に持った傘を一閃させた。 微細な水滴がその軌道にそって霧となり、ひゅんっと音を立てる。 ――水分(みくまり)? 「昔、ちょっとだけね。ある方に教わったのよ」 ちとせさんは楽しそうにそう言い、再び傘を開いた。 何かに似ているとずっと思っていたら、そうだ。 逢魔が刻に咲くという、白い夕顔の花に似ているのだった。
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